「榮辱の决する所此一擧に在り」
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本文
榮辱の决する所此一擧に在り
井上全權大使が朝鮮國の京城に入り今回の事變に就き朝鮮及び支那に向て談緒を開くは當
年内にあらざれば來年甫早々に在る可しとは我輩の豫期する所なれとも談緒愈開けて其模
樣は如何、朝鮮政府の事は姑く之を置き試に支那の談態を想像するに盖し左の三者に過き
ざる可し第一は穩便の手段にして彼れ今回の事變に於て爲す所其國に中り最早他に求むる
所なきが如くなれば先つ以て今後の無事を祈るに若かずと勉めて其佛顔を裝ひ朝鮮人をし
て一應其過ちを謝せしめ、公使舘兵營の新築費、罹災日本人の賑郵金等若干の金員を差し
出して徐に本月四日以前の舊に復す可し云々と申し出つることなり、第二は詭辨の談判に
して彼れ京城に居残りて現に國王を擁し居れば事後の不都合を繕ふが爲め其侍臣等を〓要
して己に便なる書類等を出さしめ、扨て談判の塲合と爲りては其書類等を證據として素知
らぬ顔にて自分勝手を申し出つることなり、第三は無法の應答にして彼れ其得意の漫言を
放ち今回の事は先つ日本兵より發砲して我兵を害したることなれば其損害の償金は之を日
本に求む可しとて我の正に彼れに求むる所を以て彼より逆に我れに求め所謂逆捩の談判を
申出つる所の談態は右三者中果して孰れに出つ可きや我輩之を忖度するに由なしと雖とも
支那方にて此事變の報を聞き差當り會辨北洋事宜呉大澂を朝鮮に派遣し超武揚威の二軍艦
を差し廻はしたる等を見れば支那が今回の事を等閑視せざるは固より言を俟たざるなり盖
し人間の感情に於て關係の近きものは之を忌憚するの念も深きものなり、兩國の關係近密
なれば古來歴史の面に於ても自から双方榮辱の紀念を存し、今の榮辱は其塲限りの榮辱に
非ずして昔の榮辱と互に相影映するが故に双方其榮辱を感すること頴敏にして忌憚の念も
亦自から深からざるを得ず即ち佛、獨の相惡み蘭、白の相忌むが如きは正しく其事例なれ
とも日支兩國の間柄は殆んど目と鼻との如く佛、獨、蘭、白も啻ならず且つ彼れ其國の大
なるが爲め妄に自から尊大にし曾て我を目するに東夷倭奴を以てしたることもありしに明
治七年の臺灣事件と云ひ、又琉球談判と云ひ孰れも我に伸びて彼に屈したるの趣あれば支
那の我を疾視するや日久しく今回の事を等閑に附せざるも亦謂れなきに非ず即ち本月十五
日の字林滬報に今回朝鮮の事變を記し我中國寧ロ受クルモ二法人之款ヲ一而不三甘受二日人之
侮ヲ一と論せしは遠き西戎と和するも近き東夷を防かざる可らず、左手に八千萬フランクを
佛國に投與するも右手に朝鮮の喉を扼せざる可らずとの感情を寫出したるものならん、支
那の感情果して右の如くなれば其使者が不日我大使と朝鮮の京城に相見るに當りても大に
我意に逆はざるも我れに慊らざるの應答に出つることなしとは云ふ可らず大使の事に敏な
る斯かる應答を辨折するに於て綽々餘裕あらんと雖とも彼れかの京城變乱の際、双方萬事
證據に乏しきを幸ひ、己れ其京城に居殘りたるの故を以て自分勝手の證據を設け之を辭柄
として屈せざることもあらば大使も憤然袂を振ふて立つことなきを保す可らず、事此に至
りて双方の依賴する所は唯一の兵力あるのみ、或は先方の談判振りにて縱ひ兵力に訴ふる
に至らざるにもせよ我れは死地に入りて始めて一生を得るの覺悟なかる可らず、又今日に
當りては獨り當局者のみならず日本國民たるものは皆な此事變に對して金に力に應分の負
擔を受けイザと云ふ時に驚かざるの覺悟なかるべからず「身を捨ててこそ浮む瀬もあれ」
とは正しく此れ之れの謂にして我决心の凛凛たるを示すに非ざれば彼の氣を挫て我が望を
達する能はざるなり、試に見よ目下文明國一般の風として如何なる故にや支那人を輕侮し
到る處之を好遇せざるの勢あるに非ずや此際に當り談判にもあれ、兵力にもあれ、支那に
伸びて我れに屈するが如きことあらば或は恐る滿世界の人、支那人を標準として我日本人
の輕重を秤せんことを、我國榮辱の决する所は實に此一擧に在り、白璧の缺けたるは尚ほ
磨く可きも國の榮譽の缺けたるは千秋萬古遂に磨く可らざるなり