「二度の朝鮮事變」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「二度の朝鮮事變」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

二度の朝鮮事變

明治十五年七月漢城にて朝鮮の兵士等大院君の教唆に乘じて大乱を作し我日本公使舘を襲

撃焚燒し日本人の殺さるゝ者十餘名花房公使以下僅かに身を以て免かれ幸に英艦飛魚號の

救助を得て長崎に歸着したるは同月三十日の事なり我日本政府は此報知を得ると齊しく廟

議即决中間僅かに二日の猶豫を以て八月二日には井上外務卿が馬關出張の途に上るあり數

艘の軍艦は既に其前日に西朝鮮へ向け解纜したるありて諸事の手廻はし甚だ速かに所謂疾

雷耳を掩ふに遑あらざるの想ひありたり追て外務卿が馬關到着の上花房公使に訓令を傳へ

一大隊の護衛兵を率ひて其月の十五日に再び仁川に上陸せしめたるまでは其手廻はし亦决

して遲からざりしものと云ふべし然るに此事變の報知一度東京に來り更に傳へて北京に至

るや支那政府の擧動の活?なる一〓人後に立つを慊しとせざるの趣ありて早くも支那軍艦

の仁川に來るあり又去りて天津に歸るあり十日を出でずして九艘の軍艦三千の陸兵を搭載

して南陽に來着し兵士は直ちに上陸して野營を張りたり然れとも此時は花房公使か護衛兵

を率ひて既に京城に入り朝鮮政府と談判最中なりしを以て別に支那兵の働を〓ぐべき所な

かりしと雖とも八月廿三日に我公使が朝鮮政府と談判不調の故を以て京城を引揚げ仁川に

歸るに及びて南陽の支那兵は差替はりて京城に入り城門を固め王宮を衞り大院君を執へて

天津に送り朝鮮政府に指圖して日本公使の跡を追ひ再び談判を開かしめ公使が要求する

まゝに五十萬圓の償金を拂はしめたるは其所業の公法にこそ戻る所あれ實際の成跡は人目

を眩耀するに餘りありたり追て花房公使が再び京城に入りたる時は四面皆楚歌の聲して世

は支那兵の世と爲り居たるなり此時の有樣を形容すれば日本人の所置は小學の女生徒が小

笠原流の諸禮を實地演習するの態ありて着々皆法に適ひ此處ぞと云ふ批評を下だすべき欠

點はなけれど活氣もなく精神もなく何處やら物足らぬやうにて人の情を喚ぶに足らざるが

如く支那人の所置は老練の藝妓か抔〓狼藉の間を周旋するの態ありて其一擧手一投足必ず

しも書籍上の規則を追ふものにあらず間ま或は其引く處の長裾にて酒杯を倒し一坐の笑を

催すが如き失策もあらんと雖とも兎に角に其容態の洒灑なる其進止の活溌なる前後左右に

氣を配りて局に當りて惑はず綽々として自から餘裕あり一〓一笑人をして覺えず喜憂の情

を催さしむるが如きものと云ふべし女生徒藝妓果して孰れを〓れりとするかはこれを机上

に論定すべからず唯其事局の性質如何を見て或は女生徒を善しとし或は藝妓を善しとする

のみ

今回の朝鮮事變は其端緒を去年十二月四日京城郵征局の開業式に發し六日支那兵王闕を攻

め日本人を屠殺し日本公使舘を攻め七日竹添公使敵の圍を衝て難を仁川に避くるに至りて

其頂巓に達せり此報知の始めて東京に達したるは同月十三日にして其翌日は日曜日の休暇

にも拘はらず内閣の臨時總會議ありたりと云へり然れとも此事變に付き我政府は何〓の〓

〓に出んとするか一向に知る者なかりし同十六日に井上参事院議官が蓬莱丸に搭  仁川

に赴きたるは實况視察の爲めにてもあらんかと云へり遽に其廿二日に至り井上外務卿には

特派全權大使として東京を門出したるが別に護衛兵を率ひたりとの沙汰はなかりし此大使

出發の日は事變の報知を得たる日を距ること實に十日の後に在りしなり井上大使が馬關に

着せしは廿四日の夜半十二時なりし兼ては大使の滯關極めて短く時日を失はず仁川に向ふ

の手筈なる由風説ありしが其實は决して然らず大使か再び馬關を發したるは廿八日の午後

五時半にして滯關の時數全九十時今數時間を猶豫すれば全四晝夜の長きに亘らんとする所

なりし大使が馬關にて手間取りしは果して何事に原因するか固より我輩の知る所にあらず

尤も馬關よりは大使の護衛兵として俄に小倉分營の兵若干を引連れたりとの風説あれば或

は夫等の爲めにてもあらんかと云へり斯くて大使が仁川に着したるは三十日の午後八時に

して同夜上陸日本領事館に駐宿し越えて四日蓬?丸が仁川を發して馬關歸航の途に就きた

る時即ち本年一月三日までは未た大使の入京なかりし趣なり又馬關より引率したる護衛兵

は果して幾許なりしか未た其詳細の員數を聞かずと雖とも元來小倉分營は鎭臺兵二大隊の

屯在する所なるが故に既に其人員に限あり何程大數の兵を率ひんとするも千二百より以上

の兵は事實上に於て得べからず故に井上大使一たび馬關を過ぎて小倉分營に一兵なしと仮

定するも在韓の日本兵は公使舘の護衛兵と合併して大數千五百人を過ぐべからず若し大使

の引率したるは單に小倉分營兵の一部分なりしならんには合併の總數或は千人にも達せざ

ることならん陸軍の用意は斯の如し海軍は如何と云ふに去る三日蓬莱丸が仁川を去る時は

其港内に比叡日進の兩艦ありしのみと聞けり

又今回の事變に際し支那人の所置を見るに十二月六日竹添公使王闕を辞し歸り七日京城を

立去りたる後は國王以下朝鮮全政府を擧けて皆支那兵の手に落ち八道の草木一として北風

に靡かざるはなき折柄此事變を北京政府に報道するも何か敏捷なる手段ありしと見え在日

本の支那官吏商人に至るまでも十二月十三日以前既に此事を知悉し居たる由なり支那本國

よりは直ちに二艘の軍艦を朝鮮に派遣したりと云ひ又四艘を派したりと云ひ又三艘を派し

たりと云ひ實際果して何艘の支那軍艦目下既に朝鮮に在るや知るべからずと雖とも過般我

日進艦が目撃したる所に依るも南陽灣内に三艘より少からざる軍艦在るに相違なきが如し

又其陸兵の如きも前日より京城に駐在する三處の兵營六七百の兵士の外呉大澂は五百の兵

を率ひたりと云ひ丁汝昌は二千の兵を率ひたりと云ひ其總數既に何程に達したるか明白な

らずと雖とも過般南陽にて支那兵に捕へられ京城の支那兵に護送せられ實際を目撃して仁

川に歸り來りたる吉松某の報道に依れば京城内外の支那兵は六千人計りならんと云へり此

數果して其實に稱ふや否や固より知るべからずと雖とも此吉松某は兼て人夫頭を爲す人な

りと聞けばまんざら素人の監定とも評し難かるべし又我井上大使が纔かに馬關を發したる

其翌廿九日に當り支那の特派大臣呉大澂は早くも護衛兵を率ひて麻浦を渡り京城に入りた

りと云へり而して又上海よりの電報に依れば朝鮮國王は亂を避けて支那の山海關に赴かん

とするの風説ありと云など支那人が今回の擧動の如きも公法に照らし道理に照らしては固

より世の批評を免かれざるものなりと雖とも其迅速活溌の一點に至りては决して俄かに輕

侮すべからざるものあるが如し

今回の朝鮮事變は實に我日本國の興廢存亡の係はる大切の事件なり今回の事變にして若し

これに處するの法其宜しきを失はんか我日本國の失ふ所は决して一片の名譽に止まらざる

べく或は名に續くに其實を以てするの恐なきにあらざるべし我輩は俯仰今昔の事に感する

所あり聊か記して我同胞兄弟の注意を喚ばんとするなり