「吉松某の遭難」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「吉松某の遭難」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

今回朝鮮京城の事變に朝鮮國王陛下の請求に應して大闕守衛の任に當りたる我日本公使及

び兵士に寇し妄りに大闕に攻め入りたるは支那兵なり、舊臘六日我日本兵營に火し翌七日

我日本公使館を燒きたる主謀者は支那兵なり、同七日前後に在京城の我日本商人語學生等

を殺傷し特に大尉磯林君を屠殺したる敎唆者實働者は支那兵なり、凡そ此數者は關接直接

に支那兵の手に出でたるものなれば今度井上全權大使が支那の使節と京城に相見るの日に

は孰れも京城事變中我日本國が支那人より蒙りたる大不敬大損害なりとして其賠償謝罪を

支那政府に要求することならんと雖ども此數者を外にしても尚一事の我より支那に談判す

可きものあるなり讀者諸君は本月六日時事新報朝鮮事變欄内にて對州の人吉松某遭難の記

事を見られたることならん今尚其大略を左に記すれば

吉松某は人夫頭又海漕の事を業として久しく朝鮮に在りしが今回支那の軍艦南陽灣に來

りたりと聞き客歳十二月十三四日頃朝鮮人と同伴韓船に駕して仁川港を出で、南陽灣に入

りて上陸したるに支那軍艦の水兵は某の日本人なるを謀知し軍艦より端舟を卸し直に來り

て之を縛し金錢及び袂時計等を分捕し紛打乱擲殆んど死に瀕せしめたるの景况をも實見せ

しならん、區々たる水兵は言ふに足らず我輩は支那帝國軍艦長の心事如何を解するに苦し

むなり、支那の暴民等が一個人の資格を以て乱に紛れて日本人に〓〓するなどは敢て珍し

からずと雖ども支那帝國の水兵が艦長の面前に於て海賊の叛業を働くとは我輩其何爲なる

を知る能はざるなり、斯くて支那の水兵等は朝鮮官吏の救解せしを以て吉松を京城の兵營

に護送せしに兵營にては輪番監視、之を待つに囚虜を以てし七晝夜間に食僅に三度を給し

て饑渇の苦痛を與へ日本公使の紹會あるに及んで之を仁川に護送したりと、是れ將た何等

の亂暴ぞや、今日の人間交際に於ては敵國の私船にても其近海にて難破すれば先つ其急を

救ふを相應の資給を爲す可きに今や支那の兵卒等が國交親密なる日本國の臣民を捕へ其所

有品を奪ひ剰へ其食を絶て殆んと之を死に陥れたるに至ては滿天下の人之を聞て誰か〓

〔弗+色・ぼつ〕然たらざるものあらん、今試に支那人と日本人とをして地を易へしめ、

目下須賀邊に碇泊する我軍艦の水兵が海岸に徘徊する支那人を捕へ之を打擲して其所有

品を奪ひ殆んど死に瀕したる儘、之を東京鎭臺に護送し鎭臺にては其支那人を拘留し置き

て七日間に食僅に三度を給し尋て之を支那公使館に引き渡すことありと假定せんに支那公

使館にては無言にて之を引き受く可きや、必ずや其無法を咎め日本の水兵は我國民に向て

何故海賊の所爲を加へたるや、又東京鎭臺は何故之を拘留し置きて絶食の苦痛を與へたる

やと巖重なる談判を仕掛ることならん、此時に當ては我政府にても亦正に其罪を謝して相

當の滿足を與ふることならん、日本政府にして果して然らば支那政府豈に獨り然らざるの

理あらんや、左れば吉松遭難の事は井上大使が談判の都合次第にて京城事變中支那兵の我

れに加へたる大不敬大損害と引き離して別に一廉の談判を爲すも支那政府にては决して其

罪を遁るゝの辞なかる可し、故に我輩は信す今度我國より支那に對するの談判は此事のみ

にても尚支那政府をして其罪を謝せしむるに足ることを、然るを况んや支那兵は大闕守衞

の我日本公使及び我日本兵士に寇し我日本兵營に火し我日本公使館を燒きたる主謀者たる

に於てをや、尚况んや在京城の我日本商人語學生等を殺傷し特に大尉磯林君を屠殺したる

敎者實働者たるに於てをや