「世界の景况」
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時事新報に掲載された「世界の景况」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
世界の景况
合衆國には北顧南憂の兆しあり海岸の無防禦今日の儘にては立行き難し早晩兵を備へて自
衛の途を設くるに至らんとの次第は我輩が曾て論述したる所なるが茲に尚ほ合衆國に取り
て甚だ都合好きは今時歐洲とは先つ殆んと政治上の關係を絶ち縱ひ英吉利がカナダを所領
し、又獨逸國が將にキユバ島を讓受けんとするあるも之を我東洋が歐洲各國と日增(増旧
字)にその關係を重する者に比較すれば其不安心の度遙に輕少なりと云はざる可らず然る
に之に反對して亞細亞の安危は如何なりやと尋るに實に容易ならぬ次第にして殺伐の妖氛
は年を逐て我頭上に靉靆たるが如し讀者も知るべし今回の佛清事件その是非曲直は姑らく
〓ら何故に佛國は宣戰もなく台灣を占領せしか又何故に其國の議院は東京事件の費用とし
て近頃更に六千萬法を决議したる上に現政府の政略を是認したるや佛國の議院が斯くまで
に東京の遠征略に左袒したるは乃ち其國の人民が何處までも支那に抗戰して三色旗を東洋
の旭天に輝かさんとするの决心を表する者として見れば素より怪むに足ることなしと雖と
も獨り怪むべきは表向き戰爭とも何とも斷はらずして人の國土を取り而して突然と表向き
に其封鎖を披露し恰も無斷にて人の畑中に踏込みながらこれは當分の内、拙者が預り置く
地所なりと公言するが如しその傍若無人の振舞にも亦際限なきことなり然れとも?(虚旧
字)心平氣にて考ふれば之も獨り佛蘭西共和國の人民を咎むべきに非ずして即ち世界勢〓
の〓す所なれば其咎は世界の各國に於て一樣にこれに當らざる可らず左れば佛國が支那よ
り臺灣を掠奪せんとするの兵略も又彼の獨逸國が西班牙よりキユバを讓受けんとの攻略も
その表面の手段こそ〓なれとも内心は同一なりと云はざるを得ず何となれば〓〓〓〓其殖
民地を開て猿臂を延ばさんとするの同じ大望を懷きたるは一朝一夕の故に非ざればなり且
佛國が彌よ臺灣を押領するに及んでは同嶋要害の各所には海陸の兵を屯して國威を振ひ商
賣を保護するの策に出つるは必然にして其趣は獨逸國のキ〓〓占領よりも尚ほ多く四邊に
影響を及ぼして東洋の多事倍々多に至るは預め賭易きの道理なりと云ふべし盖し數千年の
古今を通覽して世の大運を察したらば殺伐次第に止んで平和年々に繁昌するには相違なか
らんと雖とも其大時限の中に就て五十年或は百年を畫し仮に身を其間に入れて世界の有樣
を見れば一盛一衰寧ろ平和退却の時あるべし即ち今日は是れ殺伐增(増旧字)長の年代に
して彼の商業建國の亞米利加さへも今は漸く兵備擴張の必要に際會せんとすこれを人類世
界の命運と稱して誠に遁れ難きの數なれば兵に依賴(頼旧字)して此厄難を拂ふより外に
仕方は無かるべしと思はる
今の世界は殺伐主にして平和客なり一國の内にては平和は常態にして殺伐は僅にその變体
なること勿論なれとも國と世界とは倒まにして今の世界は平和が常態なりと斷言するは難
かるべし我輩斯く言ふときは甚だ刻なりとて非難する人もあらんなれとも若し冷空に考へ
なば决して其然らざる次第を知らん尤も物の順序として仁は不仁より生ずる者なれば今の
殺伐なる此世界にも相應の志士仁人ありて世を救治せん爲めに種々の企てあるは我輩の知
る所にして例へば平和協會とか又は赤十字社とか稱するの類甚だ以て少からず偖その平和
協會とか赤十字社とか云ふ者は或は萬國同盟の高等裁判所を設けて各國の爭ひを仲裁裁判
せんとし或は世界列國の戰爭ある毎に其怪我人に殘りなく醫療看病を與へんとて其目的の
美なる一は戰爭を未萌に防がんとし一は戰毒を戰後に救はんとする等誠に感服の至りなり
と雖とも偖何人が此等慈善の大事業を企つるやと云ふに其人は是れ世界戰爭の發起人なる
西洋國民にして其趣は恰も右の手にて人の面部を叩きながら左の手を翻へして膏藥療治を
與ふるが如し其善者たり不善者たるは同一の人なりとは豈に又不都合千萬の至りならずや
左れば今日の世界に於て列國國際の戰爭と云ふ殺伐の毒の消滅する迄には第一着として此
戰毒の出處なる西洋諸國がその殺伐政畧を全廢して眞の善者たるに至るを待たざる可らず
と雖ともその時運の到來は未だ我眼界の屆くべき處に在らざるが故に立國に兵備の必要な
るは何れの國に於ても異なる所ある可らず然れとも茲に人事の不都合とも申すべきは人の
思想と實際との併行進歩せざる一事にして例へば歐洲の萬國平和協會に於て萬國相持ちの
裁判所を設くるとか又は欧洲強國の兵衞を廢するに盡力するとか云ふときは其思想は忽ち
に四方に弘まり人の心情孰れも皆な平和を欲する其渇望心に投合して平和説勢力を占めそ
の〓論實際とは遙に相懸隔すれとも絶て其懸隔を顧みること無きは世の人心の常にして乃
ち廢兵説が歐洲有志者の問題となる所以ならん歟故に本年秋期彼の瑞士國にて催ふしたる
平和協會若くは赤十字社の會議の如きも獨に佛に英に墺に其志士仁人の集合したる者なれ
とも此種の仁人を出す其仁國が世界に對する獨、仏、英、墺の國となるときは忽ち不仁國
と爲りて不仁者を出し甚だ殘酷の振舞をなすに至る不條理の極なりと雖とも此の國々と交
際をなすからには其不條理のみを咎む可らずして正當防禦の手段を運らすは已むを得ざる
ことと云ふべし左れば平和は我輩の誠に欲する所なりと雖とも平和説は弱者の口より唱出
すべき道筋の者に非ず徒に實際に顧みずして唯思想の高尚に馳するは太早計の論と云ふべ
し英國の或る學者の言葉に歐洲人は國民としては人民に及ばず人民としては一個人に及ば
すとのことあり其意味を反譯すれば人が某國民の資格として外に對するときは最も不正を
働くとの義にして今の外國交際とは即ち此不正を働く國民同士の附合なれば其間には葛藤
も起り喧嘩も生し果ては戰爭となる亦無理ならぬ次第と云ふも可ならん即ち獨逸が西にキ
ユバ島を所有せんとし佛蘭西が東に臺灣を占領するを始めとして是迄は平和一途の南米諸
邦も次第に殺氣を催し來り又合衆國の如きは往々は兵の備へを要するに指迫らんとし又近
頃にしては英國の政府が頓に海軍を擴張して大に有爲の力を示さんとし(英國海軍が今度
二十一艘の軍艦と卅艘の水雷船を製造するとの電報は去月六日の紙上に載せたり)其他、
歐洲列國に於て次第に雄圖を振はんとするの企てあるは毎々我輩の耳にする所にして此時
運に際會する東洋の前途を案ずれば甚だ寒心に堪えざる所あるを感するなり