「京城駐在日支の兵は如何す可きや」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「京城駐在日支の兵は如何す可きや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

京城駐在日支の兵は如何す可きや

今度朝鮮の變乱に就ては其時の事情様々にして十二月四日より六日までを事の最中と爲し

四日以前に之を釀したる内情もあらん六日以後に日支韓三國の利害に影響す可き事柄もあ

らんなれとも結局この一擧に害を被りたるものは日本國なるが故に日本國より特に全權大

使を韓地に派遣して先つ彼の政府と談判を開き首尾能く其〓を〓て日本と朝鮮との間に最

早一點の苦情あることなく平穩至極の舊に復したるは我輩の最も滿足欣喜する所にして殊

に井上大使が韓廷を責ること酷ならず唯其の損害を償ふ〓足る可きを限りて實費のみを要

求したるは僅に彼の乱民雜兵共を懲らしむるの處分にして韓廷に對しては苦々しき談判の

中にも自から我日本政府の好意を表するに足るものなれば我輩に於て毫も間然する所なし

との旨は過般の我紙上にも略其大意を陳べたりき

扨日韓の關係は漸くも目出度き始末に治まりたれとも元來今度の變乱は十二月四日を發端

として我竹添公使は前後何も知る所なく唯朝鮮の國王陛下が急變なり來りて我れを護れと

の勅使を馳せられたるに付き寢耳に水とは申しながら一國王の詔は固より重くして其勅使

さへ尋常一樣の身柄ならず兼て貴顯隱れなき錦陵尉の宮のことなれば取るものも取り敢へ

ず早々兵備を整へて御所に赴きたるまでの事にして參内の後も國王陛下に於ては頻りに公

使に向て其赴難の迅速なるを謝せられたりとのことなれば其まゝにて三五日も過き果して

變乱の原因も分り夫れ夫れ處分も相濟みたる上は公使は公使舘に歸り朝鮮政府は依然たる

政府にてある可きは更に疑もなき筈なるに時の不幸にして如何なる譯けにや在京城支那の

將官袁世凱、呉兆有、張光前なる者が兵隊を引率して大闕に向ひ來り彼れより砲發して一

時戰爭の姿と爲り夫れより城中の支那商人等も各兇器を持て立ち廻はり荒れ廻はり之がた

めに日本の人民等は恰も不意を襲はれて死傷損害甚た少なからず是れは六日より七日に掛

けてのことなれとも尚其後に至りても支那人の殺氣は容易に収まらず南陽にても吉松某遭

難の事あり十二月廿八日竹添公使が再び入京の後歳末歳首の頃に於ても支那兵が敢て我公

使を犯すが如き擧動こそなけれとも都て様子柄は甚た穩ならざるもの多しとのことなり

依て竊に案ずるに我政府は支那政府に向て素より平和を好むことならん我國民とて同樣に

して和戰の二字を並べて示すときは戰乱よりも和靜を喜ぶこと當然なれとも今度の一條に

付き我れは支那に求る所なしとて全く無言なる譯けにも參るまじと申すは現在我日本人の

身に害を被りたる事實あるが故に其損害だけは何とか償を要めて俗に所謂明かりの立つや

うにすることは獨立國の体面に於て?(缶偏に欠)く可らざるの榮譽なればなり扨支那に

向ていよいよ加害被害の押問答に至ては仮令ひ明白なる事實にても勝つを好て負るを嫌ふ

は人生の常にして况して永遠無窮一國の榮辱に關する所のものなれば双方共に證據の有無

を論ずることならん即ち其當局者の任ずる所にして我輩は固より我外交官を信じ必ず其談

判に不都合なきのみならず剛氣活?(シに發)十二分の滿足を取り我人民の望外に出でゝ

拍手快と呼ばしむるの日ある可ければ此邊に就ては民間の吾々どもは安心して唯政府の着

手を待つのみのことなれとも爰に一つの不安心は彼の京城駐在支那兵の事なり元來朝鮮の

首府に支那兵の在るは甚だ不都合なる譯けにて我輩は此事に就き兼て所見もあれとも是れ

は他日の論に讓り兎に角に事の實際に於て掌大の京城内に日支兩國の兵が相對して兵營を

設け互に相視る其有樣は無事平静の時にても萬々安心とは申し難き其上に彼の變乱以來は

何となく双方共に〓氣も立ち居ることなれば如何にもして支那兵を朝鮮地方より引揚げし

むるの工風なかる可らず國の榮辱など云ふ談は第二着のこととするも現在目下に如何なる

變を再發す可きやも計られず况して其支那兵なるものは是れまで隨分乱暴なる擧動も少な

からずして吾々も既に之に懲りたる次第なれば是非とも至急に其引拂ひを促し度きことな

り夫れに付又我輩の慮る所は若しも我れより支那へ其兵を引揚げよと申入れたらば先方に

ては委細承知但し支那兵が引くからには日本の兵も共に引く可しと答ることもあらん歟と

之を恐るゝなり成る程たゞ物の形のみを見て事の精神を問はざるときは一方の兵が引くゆ

えに他の一方の兵も引くとは一寸道理のやうに見ゆれとも本來日本兵の朝鮮に駐在するは

明治十五年大院君の乱に始まりしことにして我日本政府より朝鮮の國情を視察し我國人保

護のために安心なりと認るときは即日にても之を引揚け尚不安心なりと思へば幾箇月幾箇

年も駐在を解かず其取捨は全く我國の主權に属するものにして支那兵には毫も關係する所

あることなし即ち日本兵が京城に駐在する事の精神なり然るに今支那の兵と日本の兵と其

物の形の同樣なるを見て進退を一樣にせんとは請取り難き談ならずや加之今の朝鮮政府の

全權は陰然の際支那人の手に在りと云ふも敢て人の疑はざるほどの内情なれば好しや支那

の兵が京城を去るも日本の方に自から保護するの用意なくんば治亂共に甚た不用心にして

如何なる不都合も計る可らず如何なる災難も計る可らざれば當分の間、朝鮮の國情の平治

するまで我保護兵を置くは止むを得ざるの要用なること誰れ人の心に於ても然りと肯する

所ならん兎に角に今日焦眉の急は一度び手懲したる支那兵に先つ退去を促すの一事なりと

信するなり