「天下の大勢」
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時事新報に掲載された「天下の大勢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
天下の大勢
「天下の大勢既に定まれり」とは吾人の常に口にする所にして其如何樣に定まりたるやと
云ふに此世界は行く行く將さに歐米白皙人種の掌裡に歸せんとするの勢既に大に定まりた
るを云ふなり此人種は元と歐羅巴に蕃育し子孫次第に增殖して遂に南北兩亞米利加洲を押
領し濠洲を領し亞非利加の全海岸を領し亞細亞の印度を領しサイベリヤを領し東印度諸嶋
を領し世界廣しと雖とも今日未た白皙人種の押領する所と爲らず尚ほ獨立の體面を維持し
つゝあるの國は僅々數本の指を屈するに過きず
土耳古國は其昔し威勢の赫々たりしに似もやらず同し歐洲の境内に其國を立てながら其文
明富強の有樣近隣の諸國に幾歩を讓り國運の衰微日に益甚たしく孤城落日再び挽回の期あ
るべしとも思はれず前年幸に英國の援助を得て露西亞の併呑を免かれたりと雖とも元と他
力に依て其死骨に肉したる一時姑息の救治法たりしが故に决して其効の永久なるを望むべ
からず今にもあれ歐洲二三強國の内輪相談に依て歐亞兩洲に跨かる全土耳古帝國の土地人
民を擧けてこれを露獨英佛等の諸國に分屬せしめんと决せば今日議決して明日これを實行
するに何の差支もなかるべし我輩は今日既に斯る相談あるや否やを知らずと雖ともコンス
タンチノプルが永く土耳古の首府にあらざるは天下十目十手の既に認めたる所なるを知る
なり
埃及は其地形亞細亞亞非利加兩大洲を接續する頸の位置に當り實に東西洋往来の要衡たり
故に古へより英佛諸國の如き各皆此地に據るを利としてこれを得るの工風を勉めたるが近
年に至り一旦佛國人の權勢此國に盛大なりしにも拘はらず近日の有樣にては全く英國の一
属地と變し其獨立は有名無實なるのみならず不日將さに其名をも併せてこれを失はんとす
るの勢あり今日の埃及は最早埃及人の埃及にあらざるなり
波斯は土耳古の東境に續く一帝國にて隨分世間に名の聞えたる国なれとも國運振はず文明
進まず依然たる東洋の貧弱國なり近來は此國に行はるゝ露西亞の權勢頗る強く獨立國たる
命數も近日將さに其最終期に達せんとせり又波斯に隣るトルキスタンの如きは早く既に獨
立國たるの名實を失ひ本年を以て彌よ露西亞の領地に改まりたり此外アフガニスタンの如
き又ビルチスタンの如き早晩英露兩國の版圖内に編入せらるべきものにして命運の定まる
所更に疑を容るべき所なし
印度は地味肥えて人民多く支那を除くの外亞細亞洲中最も人の羨望する一大田園なり此田
園は多年既に英國人の押領する所と爲りヒマラヤ嶺南八十七萬方英里の地に住する二億の
印度人は英政の覊軛に呻吟して人生の苦惱多きをかこつめり印度の東隣緬甸の如き其海岸
一帯の地は既に英人の領する所と爲り今は僅かに内地の一部分を保存して尚ほ一國の名を
有つとは雖とも其南隣の暹羅と共に早晩英佛人の間に分配せらるべきものにして其期亦既
に切迫したるものと云ふべきなり東印度諸島中爪哇は既に和蘭人の領する所となり隣島ス
マトラ又はセレベソも亦既に和蘭人の爲め其幾分を領せらるボルネオには英人蘭人各皆其
殖民地を有しニウギニイは本年に至り英國の属邦なりと布告せられたり呂宋諸島は久しく
西班牙に領せられ大陸の安南國は近日世人の知る如く全く仏蘭西の属邦と爲り爾来佛清兩
國の間に紛耘を生し今日未た其結局を見さるの時なり
支那は東洋第一の大國にして人民の富庶亦他の諸國に冠たり然れとも二千年の久しき古聖
人の古法を死守して改むることを知らず自尊自負自から己れの短を悟らずして却て人の長
を笑ふ一種奇人の羣集する國なるが故に一旦西洋文明の風其海濱を吹くに至て儒風忽ち競
はず全國の社會既に其根底より腐敗して唯傾覆の機會を待つの折柄試に佛國人に鼎の輕重
を問はれて滿朝爲めに震動し心なき者までもこれを一見して全組織瓦解の期甚た近きに在
るを合點し得るの有樣と爲りたり我輩曾て「東洋のポウランド」と題し支那帝國瓦解の未
來記を我紙上に掲けたることありしが爾後此事海外諸新聞紙の一論題と爲り種々の評論あ
る中にも支那の漢字新聞を除くの外は未た一人の反對論者なきを見ても天下與論の在る所
を察知するに足れり支那既に斯の如し况んや其東隣朝鮮國の如きをや今日其國民の一部分
は漸く獨立の慕ふべきを知り得たるが如しと雖とも時機既に後れて亦爲すべからず今に當
りて其運命の定まる所を豫言するは甚た容易なる事の如し
以上は今日世界の大勢就中西洋諸國と東洋諸國との相關係する大勢の在る所を概言するも
のにして之を一言に云ひあらはせば東洋の全體は行く行く將さに西洋人に押領せらるゝの
運命定まれりと云ふに在り大勢既に斯の如し是に於て我輩の一疑問は目下東洋の一獨立國
たる我日本は他の運命に相伴隨せず永く今の獨立を維持するに相違なきや如何と云ふの一
事是なり一概にこれに答へて永世獨立疑ひ無しと云へば夫れ迄の事なれとも念には念を入
れて先きの先きまでを色々と心配すれば唯疑ひ無しの一言は餘り簡單に過るものゝ如し兎
に角に此疑問に答ふるの議論は人々銘々の所見次第にて種々樣々の相違あるべく未來の豫
言到底一塲の水掛論に終るべしと雖とも水掛の空論時に亦其實用なきにあらざるべしと考
るが故に我輩亦此議論の困難を顧みず號を逐ひて試に我輩の所見を陳述すべし