「官報再讀す可し」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「官報再讀す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

井上特派全權大使が朝鮮京城の使命を終りて歸朝の後其談判の模樣を承はれば大使にも頗

る盡力せられて終に韓廷と五箇條の新約款を結び是れにて日本と朝鮮との交際は舊の平和

親睦に復して誠に目出度き次第なり又大使が韓廷を責ることの酷ならざるも最も我日本國

民の悦ぶ所にして滿足の外ある可らず然るに爾來世上にて樣々の説を作し朝鮮變乱の一條

は最早大使の歸朝にて終局を告げたりと云ふ者あれば又或は否な然らず大使は唯日韓兩國

間の葛藤を解きたるのみにして事變の主たる支那との談判は今日尚ほ未だ着手にならざる

が故に全体の始末は半途にも至らずと云ふ者あり夫れに就ては支那政府に向ての談判は斯

くの如くして可ならん當時支那人の擧動は斯く斯くなりしが故に我れも亦これに報るに

云々す可しなどゝて日本國中、上下貴賤の別なく婦人小供に至るまでも各一説あらざるは

なし〓〓〓〓〓方は談判の終り、無事なりと云ひ、一方は今日に談判の始り、是れより事

ある可しと云ひ、斯く論説の多き世の中にては何れを是とし何れを非とす可きや我輩も殆

ど其判斷に苦しむ譯けなれども今の時節自から賤劣を顧るに遑あらず其多き論説中に鄙見

の一説を加へて大方の敎を乞はんとす抑も今回の事變を名けて朝鮮事變と稱すと雖ども此

朝鮮の二字は唯塲所柄を示すの文字にして事の性質を彰はしたるものに非ず故に事變に冠

するに朝鮮の二文字を以てするも朝鮮國の人民と日本國の人民との間のみに事變を生じた

りと云ふの意味に解す可らず其實は事變の時に朝鮮國の京城に支那兵なるものありて此支

那兵と日本兵との間に先づ紛爭を生じ次で朝鮮人と日本人との間にも變を起したることな

れば事變の塲所柄は朝鮮國の土地なれども其事柄の性質は先づ支那人と日本人と爭ひ次で

支那人に加るに朝鮮人を以てしたるものなりと云はざるを得ず、斯く申すも今日多言なる

世の中なれば我輩は此一編に於て一切世人の言を聞かず唯日本政府の官報の文面を證據に

して鄙見の果して確實なるを看客諸君に明にせんとするものなり盖し内外諸方よりの通信

報道には往々誤聞も少なからずして時に或は之を新聞紙上に記して間もなく正誤取消し等

の不都合あれども唯政府の官報は則ち然らず事の眞實を記して曾て違ふことなく是れまで

とても〓に〓〓等の正誤は見たることもあれども政治上大切の事柄に〓なきは天地に誓て

保證す可きものなれば諸君に於ても安んじて之に信用を置くことならん即ち今を去ること

凡そ一月半明治十七年十二月十五日發兌の官報に云く

○十二月十三日長崎縣在漢陽公使舘報告 本月四日

朝鮮國京城に於て變動起り閔泳翊等數名殺害に遭へり我が公使は急劇の際國王の請求に

依り王宮に赴きたるに同地駐在の清國將官も亦兵を率ひ王宮に到り我が兵との間に紛爭を

生じ終に彼より砲發に及び互に死傷ありたり日本公使舘は兵〓に罹れり公使は本月八日一

時濟物浦に引移り同處に於て朝鮮政府並に清國官吏と談判中なり

とあり今この文面を解剖註釋するに十二月四日朝鮮國京城に於て變動起り閔泳翊等數名殺

害に遭へりとは同日郵征局にて獨立黨の人が泳翊に傷け次で閔台鎬以下六大臣を戮したる

ことならん是れは韓廷内政の都合にて斯る處分したることにして全く朝鮮國王と其親臣と

の内議に成りしことならんなれば即ち朝鮮政府内部の變動にして日本人も支那人も共に知

らざる所なり又知る可き事にも非ざるなり扨この變動に付き我公使は急劇の際國王の請求

に依り王宮に赴きたりとあり國王は獨立黨の諸臣と果斷の處分を施したれども一時人心の

騒立つこともあらんかとの掛念を以て幸に日本の公使舘には護衛兵もあることなれば戚臣

朴泳孝を勅使として臨時護身のことを請求して公使も恭しく之に應じたることならん誠に

左もある可き事にして毫も怪しむに足らず、然るに同地駐在の清國將官も亦兵を率ひ王宮

に到り我が兵との間に紛爭を生じ終に彼より砲發に及び互に死傷ありたりとあり是即ち日

支關係の發端なり互に死傷とあれば日本兵も死傷し支那兵も死傷したることならんと雖ど

も清國の將官は何故に兵を率ひて王宮に到り日本兵に向て戰端を開きたるや彼より先づ砲

發すれば日本兵は軍法に於て正當の防禦を爲さゞる可らず時に互に死傷ありたればとて支

那兵の死傷は以て彼が妄に無名の戰端を開きたるの罪を償ふに足らず之を喩へて云へば持

兇器強盗が人家を犯したる時に主人が正當の防禦を爲し主人も疵を被り同時に賊も亦疵を

負ふと雖ども賊の手疵は以て其持兇器強盗の罪を輕くするに足らざるが如し、扨日本公使

舘は兵〓に罹れり公使は十二月八日一時濟物浦に引移り同處に於て朝鮮政府並に清國官吏

と談判中なりとあり支那兵我れに向て戰を挑みたるの一擧よりして事態大に紛乱し公使舘

は兵〓のために灰燼と爲り日章の國旗も空しく之を卸して公使は舘員並に陸軍兵と共に濟

物浦に去りたることならん

我輩が明治十七年十二月十五日の官報を再讀して其註釋は右の如くにして毫も私意を交へ

ざるものなれば看客諸君に於ても之に異論はなかる可し兵は邦國の大事なり國權の關する

所榮辱の係る所これより大なるはなれ苟も外國と鋒を交へて未た其落着を見ざる間は國民

の〓として决して安心す可らず我日本國の兵は現に朝鮮の京城に於て突然支那兵の砲發に

逢ふて死傷ありたり其死傷の多少は扨置き其事柄は實に我大日本國の歴史にも未だ曾て見

ざる所の一大事なり我輩は唯指を屈して其落着の日を待つのみ左れば井上大使復命の後明

治十八年一月二十一日發兌官報號外太政官の告示に日韓の約款五條を示されて

約款

第一

朝鮮國

國書を修めて

日本國に致し謝意を表明する事

第二

此次

日本國遭害人民の遺族並に負傷者を恤給し曁ひ商民の〓物を毀損掠奪せらるゝ者を填補

して

朝鮮國より十一萬圓を撥支する事

第三

磯林大尉を殺害したる兇徒を査問補拿し重に從て刑を正す事

第四

日本公舘は新基に移し建築するを要す當に

朝鮮國より地基房屋を交附し公舘曁ひ領事舘を容るに足らしむへし其修築搆嘯フ處に至

ては

朝鮮國更に二萬圓を撥交し以て工費に充つる事

第五

日本護衞兵弁の營舎は公舘の附地を以て擇定し壬午續約第五款を照し施行する事

とあれども第五條中支那兵に關したることとては一句も見へず曩の官報には支那兵と我が

兵との間に紛爭を生し終に彼より砲發に及び云々との大事件を記して今度の官報には其事

の結末なきが故に井上大使の使命は日本と朝鮮との葛藤を解きたるのみにして我政府の談

判尚未だ支那政府に向はざるか或は今正に談判最中なるか又或は其談判のために特命全權

大臣を北京へ差向けらるゝか其邊は固より我輩の知り得べき限に非ざれども兎に角に日支

の關係は單に官報の文明を見るのみにて今日尚未だ始末の付かざるや明なり盖し始末とは

其文字の如く彼より砲發したるが始にして我より其砲發の罪を問ひ滿足す可き賠償を得る

が末なり我輩唯其始を聞て未だ其末を見ず故に今日既に朝鮮事變の終局を得たりとの説は

未だ官報を讀まざる者の粗言にして取るに足らざるなり