「フウト公使來る」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「フウト公使來る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

フウト公使來る

朝鮮京城駐箚米國特派全權公使ラシアス、エーチ、フウト將軍は彼阿會社の汽船チベット號に搭し去る一日を以て長崎より横濱に入港したり將軍は米國カリホルニヤ州の人にして一昨年の春までは南米智利國バルパライソ府在留米國領事たりしが同年三月中現任に榮轉し四月の初、桑港發、同十九日横濱着、暫時日本に滞留の上、五月十四日を以て朝鮮國の京城に入られたり是より前一年即ち明治十五年七月朝鮮に大院君の乱あり、乱の正に闌なるに當り支那政府は突然にも兵力を以て朝鮮に迫り國王の生父大院君を拘致し去り尋て又朝鮮爲中國所属之邦と主張し故なく兵を内地に派遣し甚しきは内政を指圖する等傍若無人の振舞をなして其属邦論を實にせんとせしものゝ如し是に於て天下始めて朝鮮の獨立を疑ひ是より先き英獨二國は朝鮮と修好の條約を結ばんとしたるに支那が属邦論を主張するを聞き遅疑逡巡、暫時其條約を見合はすることと爲り明治九年の日韓條約にて日本が朝鮮を獨立視し置きたるにも拘はらず支那の擧動を傍觀したる外國人等は皆な其疑〓を釋くに苦しみ朝鮮の獨立は殆んど風前の燈に異ならざりしが流石は米國、義侠の國なり、何かは以て猶豫すべき我が爲す所是れ視よと云はぬばかりにて其間に現はれ朝鮮に向て修好通商の條約を結び首尾よく之を批准して其獨立國たることを認め斯くてフウト將軍を京城へ派遣し支那の属邦論を破て朝鮮非中國所属之邦との大義を天下に表白したるものゝ如し、左れば當時我輩は米國の義擧を評論して虎穴に入りて遺兒を救ふの類なりと聲言したりしがフウト公使入韓の後は能く米國の意を體して敢て或は懈怠することなく朝鮮人をして米國の文化と義侠とを慕はしたることは内外人の共に公認する所なり、特に去年十二月京城事變の際、我商民支那兵の毒手に罹るもの少なからざるに及んで公使には支那人の疾視するあらんことも憚らず本多某の妻孥を銃劔の下に救ふて丁寧懇切にも之を仁川まで護送したるが如き、其處量の米國公使たる公の資格に出づると一米國人たる私の深切に出づるとに論なく我々日本國人は其志の厚く且つ深きに感せざるを得ざるなり斯かる急變の塲合に臨み朝鮮人にもあれ日本人にもあれ〓〓とあれば敢て之を救護す可しとの〓勇義侠を存するが如き有樣あるに至ては身に武〓を帯びたるフウト將軍、天晴れの〓〓なりと云はざるを得ざるなり

我輩曾て云へることあり一國の政府は其國民を代表し外交官は其政府を代表するものなりと故に外交官が他國の政府又は人民に對して施す所のものは一言一行一擧一動悉皆國の利害に關係せざるはなし、即ち其言論の寛猛、擧動の怯勇は外交官彼れ自身の寛猛怯勇を評するの標準たるのみならず其外交官の代表する政府の價を評し又其政府の代表する國民の價を評するの標準と爲ることある可し舊幕府の時に我國駐箚の英國公使はルサフォルド・アルコックと云ひ米國公使はタヲンセント・ハルリスと云ひ兩公使の主義常に同しからず當時攘夷論の盛なる時代にて或る時浮浪の士なる者が英國公使舘たる江戸高輪の東禪寺を襲撃したるときに英國公使は大に狼狽して直に國旗を撤して我國を去んと迄に申し出し同僚たる米國公使へも其義に同意せんことを促したるに米國公使は泰然として動かず浮浪の攘夷家恐るゝに足らず之を恐れて狼狽するは畢竟英國公使の怯懦のみ我等は我公使館たる麻布の善福寺中に安眠安食することヨウヨウヨウヨウ市中に眠食するに異ならずとて其催促を謝絶したれば當時日本人の公論にて英米両國の人柄を評するにも動もすれば兩國の外交官たる公使の擧動に由て其寛猛勇怯を斷するの風ありたりとの次第は嘗て我時事新報にも記載したることあり漫然たる江湖の人口に某國人は勇なり怯なり深切なり薄情なり抔と評する其評は何れより生するやと尋るに外交官の言行擧動其一原因と爲ること少なからざるが如し左れば彼の朝鮮事變の際フウト公使の所置の如き我々日本人の獨り之を賞嘆するのみならず心ある他の朝鮮人中にも亦同樣の感を抱くものある可し而して此感賞の聲は皆米國の政府人民に反映するものなればフウト公使の如きは其職務責任に對して毫も慙る所なきものと云ふ可し

今やフウト公使には一時賜暇を得て我國に來られたり我々日本人は成る可き丈けの敬禮を表し成る可き丈けの?待を爲さゞる可らず試に去年の朝鮮事變に於て米國と日本と地を易へしめ日本公使が遭難の米国婦女を劔銃の下に救ひ丁寧懇切に之を全うして米國官吏に引渡したることありと假定し又其公使が何樣かの序を以て米國に渡航することありたりと假定せんに彼の禮譲を重んずる米國人は當さに如何が之を待つべき到る處帽を脱し歡呼して之を迎ふることならん米國人の我を待つ果して如此なりとすれば我の米國人を待つ獨り如此なること能はざるか聞くが如くんば横濱港民は曩きに一書を米國大統領に贈り以てフウト公使が京城事變中本多某の妻孥を救ひたることを謝したりと盖し亦文明國民禮譲の一端ならんか、意ふに今度フウト公使の來着に就ては我政府に於ても亦自から之を好待するの道ある可し我々敢て〓俎するを好まずと雖ども唯日本國民たるの資格に於て爰に公使の來着を機會として一言厚誼を鳴謝するものなり