「日清事件と佛清事件」
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時事新報に掲載された「日清事件と佛清事件」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日清事件と佛清事件
昨年十二月朝鮮京城の變乱に於て日本人の生命は多く支那兵の手に罹りて死したるものあり朝鮮在留の日本公使が公使舘の旭日旗章を引下ろして仁川港まで〓退きむたる〓〓許多の時〓中に我國が支那兵の爲めに蒙りたる公私両樣有無両形の損害恥辱は決して尠しと云ふ可らず尤も右變乱の折柄には朝鮮人が我に與へたるの損辱もありしに付朝鮮人の咎は咎として一面にその談判を開き井上全權大使の一行遙々京城まで押し出して滿足なる掛合をなし遂げ朝鮮國よりは詫状と償金とを出して既犯の罪障も悉皆消滅し今日我と彼との間柄は交情常に復して却て以前よりも一入その情を温めたるの實あるは我輩に於ても喜悦この上無き次第なりとす故に昨年十二月の變乱は日清韓三國交渉の事變にて清韓二國は致害者の地に立ち日本はこの二國の爲めに被害者たりしと雖ども今日にては朝鮮は我に對して其致害者たるの責を償却し最早被告連帯の地位を脱したれば今回事變の原告人たる我日本國が訴訟の被告人として取り押ゆべき相手は唯獨り清國政府あるのみなり左れば事變の本は日清韓の三國に連なりしなれども朝鮮が一旦既に詫状を出して償金を納めたるからには目下日本國の外交上にはもはや朝鮮事件と云ふ葛藤のあるべき筈は無したゞ眼前に在る所の事件とは致害者の支那國に向て談判の一條なるのみ故に我輩は今日に於て日本の外交上に朝鮮事件なる者あるを知らず朝鮮事件は全く落着に歸したり既に過去に属したり過去落着濟みの事は今日に又とあられ得る道理を見ず今日は獨り眼前の日清事件こそ實に時の大疑問と申すべし
話頭を轉して爰に支那國の現状を察するに同國は昨年の秋以來佛蘭西と必死の戰爭を始め佛艦隊の爲めには福州を壊はされ鷄籠淡水を荒らされて海上の危險一方ならざる上に兼てその南境に於ては在トンキンの佛國陸兵と度々の接戰をなし敗北死傷も少からず陸路水路中々の大敵を引受けてさぞ苦しからんと思ひの外に遉は東洋の大國たけありて度々の敗北にも容易に辟易せず却て寛然たる餘裕を示し今の處にては和睦の申込をも聞入れざるが如し其決心と勇氣のほど偏に感ずるに堪へたり然るに之に反し豫て慄悍果決の聞え高き佛國は開戰以來別に花々しき戰爭もなさずして唯小手先きの競り合ひ許りて事とし一擧して天津より北京に乗入らんとする如き見事の企て無く僅に台灣福州邊に於て區々たる小戰を挑みしは實に局外の傍觀者までに齒痒く思はしめたる程なりき然る處同國もこの近頃に至りては暗に活動の潜力を養ひ得たるが如く國民は政府の爲めに巨額の戰費を供給し政府よりはトンキンに向け又支那海に向けて續々兵師軍艦を差遣し軍さの準備も漸く整ふの色あることゆえ追附けブリヱル將軍とクルベイ提督とが彼此同時に大擧して支那を攻撃し目覺しき程の勝利を占め佛國兵の旗色を東洋に吹き靡かすの時あるに疑ひ無からん且つ又支那國に於ても近來倍々佛軍退治の用意を張りて左〓〓は現に福州に出〓して軍事〓〓を指〓し〓々數艘の軍艦は〓〓救援の命を受け既に福州を出發したり臺灣には戰爭既に始まりたりと云ふ抔支那の意気込みも近頃以て容易ならざる次第なり特に冬も漸く過ぎ去りて將に春暖に近つくの時節柄なれば軍さには最も妙なるべし兩虎久しく爪牙を練磨して氣力彌々活動し斯て佛清両國の激戰を見る等の塲合にもならば其勝負も一二箇月にては決して巳むまじ佛清事件は實に世界上時の大疑問なるべし
佛清の兩國かくまでに互に死力を盡して戰をしたればとて我は素より局外者の事にてその勝負輸?何にも直接の損得あるに非ず隣りの喧嘩決して妨げなしと云ふと雖どもたゞ支那國に對しては此節柄折り惡しくも我より是非懸合に及ぶべき筋あるが故に日清事件と佛清事件と斯く同時に衝き當り又重なり合ひては我に於ても聊か利害の關係する所なきに非ざるなり即ち其次第と申すは我國が彌々支那と談判して直をば直とし曲をば曲として日本の蒙むりたる損辱を恢復し以て日本國の冤を世界に雪め同時に國權を世界に張らんと思へばこそ我輩は一刻も早く支那談判の實行を希望するなれども若し佛清事件の騒ぎいよいよ大となりて歐亞の二大國必死の鋒を交ゆるの日となりては滿世界の人の耳目も皆なこの佛清事件に注着してその評判取沙汰は益々高く特に二國の戰爭結着するまでには三四箇月を要し半箇年を要し延て一年二年に及ぶことともならば我日本の支那談判は其際中に在りつゝどれほどの滿足を得たりともその噂さ唯僅に東洋孤島の一隅にのみ止まりて直を世界に表明し冤を世界に雪め得ざるの憂へは無きや如何ん我輩の心窃に安んせざる所なり去り迚我日本國の支那談判は半箇年にても一箇年にてもこの佛清事件の悉皆片附くまで延期して然る上に懸合ひに及ぶべしと云ふほどまで故意に義侠を售りて人に要なき遠慮を爲にも及ばず又義侠を售り遠慮をなすは可なりとするもその間には世界の人も此度日清の事件に日本が大の損辱を蒙むりたる次第を忘却して日本はその冤枉を受けたる儘、遂に我直を表明し得るの機會を失する無しとは云ひ難し左りとは國に取りて甚だ損失のある次第なれば目下指懸り居る支那談判は至急に之を實行し終りて佛清事件の騒ぎの太甚たる其前には整然既に日清の事件を落着せしめて直を表し冤を雪むるの策をなすは實に日本國の爲めに大切の儀なりと信するなり