「正當防禦怠るべからす」
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時事新報に掲載された「正當防禦怠るべからす」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
正當防禦怠るべからす
古來の諺に「百年論定まる」と云ふことあり其意は凡そ人々の言行は善惡共に一時世上に誤認せられて其眞相を見はす能はざることあり例へば孔子が盗跖と誤られ菩薩が夜叉に見違らるゝ抔は隨分世上に有られ得ることながら是は全く一時の間違にて天定て人に勝つ、百年の後には事の眞相も自から世上に現はれて善惡邪正両ながら其實を掩ふこと能はざるに至るべしとの義ならん如何にも世の中の道理は斯くなくては叶はぬ事ながら扨又一方より考れば世の中は目暗千人の譬に洩れず多數の人民は隨分法外なることをも眞面目に引請けて此事より遂に意外の禍を引起すことなきにあらず然れ共是は一時の間違なり百年の後は議論も定るべしとて忍んで其時を待たんか文明世界は吾人に百年の猶豫を許さず吾人若し他人の誣枉を被ふりて今月今日即刻に之を洗雪せずんば百年は愚か明日にも如何なる奇禍に罹りて遂に恢復の道を失ふに至らんも知るべからず例へば今度の朝鮮事變の如きも京城屯在の支那兵が教唆者たり實働者たりしは明白のことにして其次第は我々が前日より再三四論述する如くなるが凡そ我日本人中には一人として之に異議を抱くものなきのみならず日本支那に來住する歐米人中にも道理の分別ある人々は孰れも之を賛成せざるはなし然るに此間に彼支那人が獨り勝手氣儘の妄誕を吐立て虚を誣て實となし理を枉て不理となし啻に之を口にして他人に告語するのみならず公然之を新聞紙に記して世上に宣布し毫も遠慮する處なし例へば昨年十二月十九日の申報に前略十月十七日(即我十二月四日)東洋人將王妃の姪閔泳翊、用乱刀〓傷、十八日(十二月五日)日兵直入王宮、挟制國王、殺斃大臣六人、云々又同月三十日の同新聞に洪英植朴泳孝、勾連日本、劫高謀不執、(中略)李祖淵韓圭稷、先輿日同謀、竹添入宮時、約定各以所都攻華軍、以阻救援、辨兵不肯從乱、李韓獨力不能作外應、竹添疑之、遂殺李韓、又一月十二日の同新聞に十八日己刻、〓〓王移於判書李載元宅内、(中略)聚論移時、至有廢立の〓、或曰、英植欲廢王而幽之江華島、進一郎欲幽於日本東京、以是未决、云々又一月八日の字林滬報に、十八日早、各國公使入宮、謁王慰問、竹添公使在座、(中略)公使退出後、竹添公使以王命宣帝朝鮮兵之將軍韓圭稷李祖淵、二人入宮、即殺之、云云又曰洪英植、急〓簒弑、欲借日本之兵、及訓練之朝鮮兵起事、而英植自立爲王、歸功於日本之保護、投作外〓、英植以之餌竹添、々々以之愚英植、遽許前賠四十萬元、云々又一月十二日の申報に日使竹添進一郎、遂於二十日未刻率其兵出西門、去仁川之濟物〓、而屯駐、而自焚く其漢城之日公使舘以行、一路之風聲艸影、倶疑爲兵、爰放四面連環槍以自衛、撃斃街市之居民男女、將有百人、云々又曰黔黎無端、罹日禍而斃者九十一人、云々以上は唯其一〓を示したるものなれども、此他にも此等の新聞紙を見れば其社説となく雑報となく日として我國を誹謗若くは嘲弄するの文字を登載せざるはなし讀者若し我輩の言を疑はゝ試に此等の新聞紙を一讀せられよ必ず將に其虚妄の此に過くるものを發見するならん勿論支那人の虚妄とては世界中に有名なる實事にして又此等の諸新聞は固より報道の確實なるを以て知られたるものに非ざれば世の具眼者は之が為めに誤まるゝ事もなかるべしと雖も前にも言へる如く滔々たる流俗、目暗千人の世界に於ては千人に一人又は十人百人は此等の誣妄に欺かれて支那人の狡計に陷るものなきを保たず況んや西洋人の如きは深く東洋の事情に通せざるものも多ければ是等の虚報を聞きて直に之を本國に傳へ遂に歐米の諸新聞紙迄も此等の虚報を載せて日本の汚名を世界に傳播するに至ることなしと云ふべからず若し然らんには今後我國の外交上に如何なる障碍を生すべきや我輩殆ど之を想像するを得ざるなり
支那新聞の記す所は事實を誤る虚妄の言にして固より其辨駁をも要せざる次第なりと雖とも徒らに彼れが放言するに任して一言の應答をも爲さゞるに於ては事情に疎く又利害に切ならざる遠き歐米の人々等は漫然支那新聞の言ふ所を信して漫然今回の事變を評し是非曲直の在る所を顛倒するの憂なしとも云ふべからず殊に支那新聞は事變の始めより今日に至るまで自由自在勝手次第に筆を弄して毫も忌憚する所なく我日本都鄙各地の新聞が謹慎寡言なるに似も遺らざるが故に支那新聞の言は先づ歐米人の耳に入り日本新聞の言は兎角貫徹し難かるべき恐れなきにしもあらざれば我輩は取敢ず一二支那新聞の誣妄を左に辨すべし
日本人が閔泳翊を刺したりと云ふは妄言極まるものなり當夜は非常の混雑にて日本の公使舘に於ては何等の事情なるを知らざりしに英領事アストン氏の來舘して護衛を假るに因て始めて閔泳翊の兇手の爲に傷を被りたることを知りたる位なり此等の事情は當夜宴席に列りたる内外人の知る所にして別に辨〓を要せざる事なり又十二月五日に各國公使が入内して國王に謁見したる後竹添公使獨り跡に留まり韓圭稷李祖淵を召してこれを殺したりと云ふも亦甚た事實に相違せり韓李二氏其他の大臣が殺されたるは四日の夜の事にして五日にあらず且つ韓李二氏は四日騒擾の夜竹添公使よりも先きに國王の御前に在りたる人なれば召して入内せしむべき樣なし又竹添公使が國王を挟制して大臣を斬殺せしめたりとは何事ぞ公使は五日の夕に始めて大臣の戮殺されたるを聞きたる位の事にして更に斯る事情を知らざりしなり又竹添公使が國王を日本東京に幽せんとしたりと云ふなどは奇想を極めたるものと云ふべし前年大院君を執へて保定に幽し去年は又朝鮮王を執へて山海關に送りたりとの風説ありし程の支那國人ゆえ彼等には珍らしからす考と云へば云ひ得るものゝ文明世界には先づ不通の想像説なるべし次に又洪英植自立して國王と爲り日本の屬邦と爲る約束にて竹添公使が四拾萬圓の償金を還したりと云ふは甚だ不通の論なり若し果して斯る約束ありしなれば竹添公使は洪英植が自立して王と爲りし後を俟ちて償金を還すべき筈なり屬邦と爲らんと云ふ洪氏に金を還さずして獨立を希望する李熙王陛下に金を還したるは前後理窟の合はざることならずや是又兒戯一般の想像論と云ふべし又日本公使自から公使舘に火を掛けて遁れたりと云へとも日本公使舘の燒けたるは公使の一行が漢江を渡らんとする頃の事にして日本人が公使舘を出拂ひたる時より二時間餘も後の事なり如何に日本人が日新の技に富みたりとて漢江の波頭より校洞の公使舘に火種を投入るゝが如き新工風の手品は未た習ひ覺えざることなるべし支那人の虚誕誣妄は今に始めすことながら左りとては又實に太た甚たしと云ふべし