「朝鮮使節來る」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「朝鮮使節來る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

朝鮮使節來る

朝鮮の使節正使徐相雨副使穆仁徳の一行は昨日東京に來着し兼て設けの旅舘京橋區南鍋町の伊勢勘楼に投宿したり此使節渡來の理由は苟も我日本國に籍を有する以上の者なれば老幼男女都鄙の人を論せず去年十二月以來疾く既に熟知する所にして今更我輩の辨説を要せざるなり唯日本朝鮮兩國の交際は去年の十二月以來破裂すべかりしを幸に一月九日京城に於て井上馨金宏集兩全權大臣の間に取結びたる新條約を以て辛くしてこれを支え留め再び親睦敦厚の天地に復せしめたる其條約の義務を果す第一着の使命なるが故に今回徐氏穆氏の任は誠に重大至極のものなりと云ふの外なきなり

徐相雨は去年十二月の京城騒乱に獨立黨中錚々の名聲ありし徐光範徐載弼なんど云人々の親族なれとも其平生の持論は獨立黨と相容るゝものにあらず相雨氏は文官出身にもあらず又武官出身にもあらず蔭官とて父祖の功績によりて政府に出仕したる人なりこれを日本に譬へて申せば其父の爵位の蔭によりて其子に從爵位の位階を有する者あるが如きの類なり氏は弱冠の時より〓〓に精しく文章を〓くし書は最も妙なりとて早く其名を知られ〓て朝貢使に隨行して北京に赴きたること前〓〓〓あり文學の一點に於ては支那の儒者中にも餘り〓しを取るべき者を見ずとて中々文徳の名誉に富みたる人なり明治十五年京城事變の後科挙及第して外衛門の主事に任せられたるが其官職の重からざるが爲めに之に居るを慊しとせず間もなく辞職して政府を退きたり爾後野に在りて政務に與ることなかりしに去年十二月の變乱に際し氏は兼て金宏集と懇意なりし故か急に召出されて外衛門の協辨に任せられ今回遣日本修信正使の大任に當りたるなり氏は年齢五十二なりと云ふ

穆仁徳は今は朝鮮政府に仕官し朝鮮の衣冠を戴くと雖とも本來は日耳曼人なり少壮より東洋に往來し支那路に通し在支那日耳曼領事官の候補に名を掲けたれとも未た領事官に任せらるゝの沙汰なくして止みたり其後直朝鮮總督李鴻章の幕賓と爲り居たりしに明治十五年朝京城の事變を機會として支那政府が爾後大に朝鮮の内治に干渉することと爲りたるより穆氏は李氏の推薦を以て朝鮮政府に仕へ外衛門の恊辨に任して大に内治外交の諸政に参與したり去年十二月の變に一度朝鮮政府に仕官することを止めて元の日耳曼人に立戻りたるが間もなく又同政府に仕官して再び外衛門恊辨と爲り今回遣日本修信副使の大任に當りたるなり穆氏は年齢四十未滿なりと云ふ

回顧すれば明治十五年の京城事變に兇徒日本公使舘を襲撃して花房公使以下纔に身を以て免れ歸り再び同公使が京城に入りて朝鮮政府と談判するに及びて謝罪使を日本に送り罪人を刑罰し償金五十五萬圓を拂ひ貿易塲を開き遊歩規程を廣め内地旅行を許す等の條約成りて其節の修信使には去年の騒乱に獨立黨の領袖たりし朴泳孝正使に金晩植副使に徐光範書記官に金玉均顧問に各其職に任じて日本へ來り滞在二箇月十分に日本社會の現状を視察して歸國の後は所謂朝鮮國獨立せざるべからず朝鮮國開化せさるべからずの議論朝野に喧しく偖は今日の如く朝鮮の独立黨と稱する一派を生じ去年十二月の騒乱にも獨立黨は一時政權を握りたる程の時勢と爲りたるなり盖し獨立黨發生の原因は多數にして其由來も亦久しきことなるべしと雖ども明治十五年の修信使が日本に來りて日本を視察し日本を羨むの心を起したる事よりも更に直接にして且つ重大なる原因はなかるべし

明治十七年十二月京城の事變に日本公使舘は焼かれ日本人は殺され日本公使以下遂に乱を仁川に避くるに至りて日本特派全權大使京城に入りて新に朝鮮政府と談判を調へ謝罪使を日本に送り償金十三萬圓を拂ひ陸軍大尉を殺害したる者を嚴罰に處すること等を約束せしめて日韓の交際は平和に歸し朝鮮政府は其条約上の義務を果たさんが爲め先つ修信正使徐相雨同副使穆仁徳を日本に送りて此一行は實に昨日を以て東京に來着したるなり此一行が來京の途次早く既に神戸大坂邊を遊覧し〓〓造幣局砲兵工廠等をも一見したりと聞けば一旦使命を了りたる後は前年の修信使の例の如く十分に日本を視察して大に悟る所あるなるべく隨て今回の徐氏も前回の朴氏の例に倣ひ自今漸く朝鮮獨立せざるべからず朝鮮開化せざるべからずの論を主張する樣の事ともなり遂に又今回の修信をして後來朝鮮の文明を進むるの一大原因とならしむべきやも知るべからず我輩は朝鮮國の爲めに謀り此使節の一行が早く使命を果たし早く日本の有樣を十分に視察し早く歸國して其成果を實地に利用せんことを希望するなり