「北京の談判」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「北京の談判」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

北京の談判

遣清大使の人撰は既に内定ありしとも云ひ又未だ定まらずとも云ひ我輩は未だ其内情如何を審かにすること能はずと雖とも若しも我廟議既に大使派遣の事に决定しあらんには不日其人撰も定まり人撰の定まると同時に大使が東京を發するの期日も定まり事着々其緒に就くべきや疑を容れず何となれば事情の在る所左のごとくなればなり今回大使を北京に參向せしむるの必要に迫りたる其原因は去年十二月六日以後朝鮮京城に於て支那人と朝鮮人と力を恊せて我日本人に耻辱と損害とを加へ日本人の殺さるゝ者四十餘人日本公使舘も焼かれ日本兵營も焼かれ日本公使以下百五六十名の日本人は僅かに身を以て京城を脱れ出でたり此恥辱損害の洪大なるは世を擧げた皆承知する所にして今更我輩の再説するを要せず恥辱は雪かざるべからず損害は償はしめざるべからず是即ち今回朝鮮事變の甚だ重大なる性質を有する所以なり去月上旬井上全權大使が京城に於て朝鮮の全權金宏集と談判して五箇條の新條約を結び朝鮮政府をして罪を謝し損害を償はしめたるを以て是れにて朝鮮事變の一部分丈けは始末付きたりと雖とも此事變に付支那が日本に對するの責は未だ寸分も其償却を果たさず而して事体上一日も等閑に附し去るべきものならざるが故に我れより進で急ぎ其償却を催促すべき筈なるに今日に至るまで我々の未だ去る沙汰を聞かざりしは盖し北地寒氣甚だしく天津の河口は年の十二月より翌三月の差入りまで堅氷に鎖されて船舶の進航を許さず去ればとて氷雪を踏て陸を北京に入るの不便は春暖を待て汽船一直路天津を指すの便捷なるに如かず依て止むを得ず五十餘日空しく東京に在て天時の循環するを待ちたるものにてあらん然るに今東京郊外梅花既に綻び遠き天津の河氷は明日をも待たず融解し去るべき氣候となりたれば用事ある身は一日も安居すべきにあらず扨ては我輩が廟議既に大使を清國に遣はすことに决定しあらば其發向は必ず近日の内にあらんと云ふ所以なり

扨我大使の追て北京に到着するとして其談判の次第は如何なるべきか我要求の〓は何々なるべきや我輩は固よりこれを今日〓〓〓ねること能はず當局者の見る所と我輩の見る所とを〓〓せば或は互に〓〓輕重の相違あるべしと雖とも苟くも我恥辱を雪ぎ我損害の賠償を得んとする以上は前を懲らし後を戒むるの事に關し多少の要求を爲さゞるべからざるは明白なり而して支那政府は此要求を聞て其多少に拘はらず必ず即坐にこれを承諾して我れに滿足を與ふるに相違なかるべし何となれば道理上に於て正當至極なる我日本の要求を拒絶して故らに怨を隣國に搆ゆるは支那政府の好まざる所なるべければなり今や佛清兩國の葛藤は日に益深きを加へ東京地方の佛軍は漸く其勢力を增して漸く北に進み雲南廣西の舊城に三色旗の翩翻たるを見るの期日は轉た益切迫し來りたるが如し又顧みて佛國海軍の擧動を見るに台灣の諸港占據の傍に忽然其一隊を分ちて北方の海圖に出現せしめ台灣救援の爲めにとて南行の途中に在る支那艦隊を襲ひ一戰直ちにその三艦を打沈め尚ほも進て長江以北の沿海に其運動の地を擇はんとするの心あるが如し幸にして今日まで佛軍の擧動左まで活溌ならず渤海の氷亦甚た厚かりしを以て支那政府の患も焦眉爛額の急を覚えざりしと雖とも今日以後は恐くは復た薪上に安臥して火の移るを顧みさるが如き奇態を學ぶこと六ケ敷かるべし支那政府は一の佛國に對するすら尚ほ且つ今日の困難に陥りて前途の危險測るべからざるものあり况んや更に怨を日本に搆へて同時に二個の佛國に對するをや寧ろ薪を抱て火に赴くの愚に均しからんのみ故に我輩は信ず今回北京の談判に於て支那政府は我日本政府が提出する諸點の寛か嚴か多か少かその邊の細事情は一切吟味するに及ばず直ちに我要求のまゝを承諾するに相違なかるべし盖し清廷も亦自から達〓の士い乏しからざればなり然りと雖とも支那政府の擧動の測るべからざるは人間にして猿の心事を察し又鬼神の思慮を伺ふに異ならず是れなれば間違なしと思ひし事も事の實際に當れば推察の大間違なりしを發明することあり此事今日までの實驗に由て我々の疾く承知し居る所なり果して然らば今回の北京談判も案外に困難にして案外に手間取り支那政府は無分別にも我正當なる要求を拒絶して後の患を顧みず我日本人をして止むを得ず自から手を下して我恥辱を雪き我損害を回復するに任せしむべきやも知るべからず依て我々日本國人たる者は事の裏と表とを熟考して大に今日より覺悟し置く所なかるべからざるなり