「国交際の主義は修身論に異なり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「国交際の主義は修身論に異なり」を文字に起こしたものです。

  • 18850309 に掲載された論説「国交際の主義は修身論に異なり」(注1)
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本文

第一段落

文明開化の主義は、本来是耶非耶、学者の問題にして、我輩の容易に判断すべきに非ず。 今一歩を譲りて其今日の人事に顕われたるものを将て之を近く徳義上に論ずるときは、開明の主義に怪しむべきもの甚だ多しと雖ども、如何せん、世界の人文、今日の程度に位する其問は、今の文明を文明として、一歩にても此方向に進むを勉めざるべからず。 如何となれば滔々たるもの天下皆是にして、我身も此滔々中の一人にして、我国も亦其中の一国なればなり。 扨一身も一国も共に今の不完全なる文明の中に浮沈するものとして、道徳の辺より見れば身を保つは易くして国を保つは難きが如し。 爰に一人あり、生涯の行路固より過失なきを期すべからずと雖ども、道徳の教に過て改るに憚る勿れとの金言あれば、苟も身に過あるときは公に之を謝して後悔の意を表し後日をさえ戒しむれば、自分にも心にこころよく、人も亦其罪を嚇して咎る者なきのみか、却て其悔悟に勇なるを賞誉して、本人の敬愛は以前に倍するの例なきに非ず。 斯の如きは即ち一旦の過失、固より願うべきに非ざれども、其過失は偶然にも本人の名を成すの媒介と為りて、所謂転禍為福の僥倖とも云うべきものなり。

第二段落

之に反して国と国と相対して自国の栄誉を維持せんとするの法は、全く一身の場合に異なり。 抑も人民の報国心なるものは、本と其生誕の土地に恋々して、古来の歴史を心に銘じ、唯一遍に自国の幸福を祈りて他国の利害を顧みず、甚しきは他国を損じて自から益せんとするの心にして、道徳の眼より見れば国民各自の私心たるに過ぎず。 此各自の私心、相集りて一種の体を成し、公に発して政治に現わるれば政治の外交と為り、私に利財の事に行わるれば貿易商売の競争と為り、各国相互に権を争い利を貪りて窮極あることなく、其際に権力を占むること大にして利を得ること多きものを名けて文明富強の国と称し、自から揚々得意の色を為せば、他も亦これに威服して景慕せざるものなし。 左れば報国心とは、尋常の道徳を離れて徳義の範囲外に一種の私心を集め、其私心の活働するものと知るべし。 或は之を評して国民、外に対するの私心、内に在るの公心と云うも可ならん。 純然たる一視同仁の教場より見れば誠に苦々しきことなれども、今の人間世界の不完全なる、道徳は僅かに一個人に行わるるの路を開きたるのみにして、国交際には尚未だ其痕跡をも見ず、残念ながら之を如何ともすべからざるなり。 或る時甲国の外交が乙国の官吏に交際の公用を語りて、語次、私の懇談に及び、何か双方至極便利にして相互に応援せんなどと笑語終りて別に臨み、甲某の云うには、先刻より双方の便利を説て様々御懇談は申したれども、拙者は唯自国の忠臣にして貴国の忠臣に非ず、自国あるを知て貴国あるを知らざる者なり、故に今日公用の御約束は固く守るべきなれども、其以下の談話に至ては拙者の申したる所、悉皆偽かも知れず、又後日に至り自国の利害次第にて如何様に反覆して貴国の不利を作すべきやも計られず、拙者の温言を信じて今日の笑語に御依頼は無益なり云々とて、暇を告げたりとのことあり。 亦以て国交際の冷にして徹頭徹尾、国民の私心に成るを証するに足るべし。

第三段落

国交際の無情にして権利是れ争うの状は、前陳の次第を以て其大概を窺見るべし。 故に其交際上に於て双方孰れかに過誤非曲ありとせんか、決して過而勿憚改あやまってあらたむるをはばかざることなかれの聖教に従わずして、必ず其過失を装い其非を遂げんとして力を尽すのみか、其過失の愈々大なれば其尽力も亦愈々勉めて、如何なる場合にも他に一歩を譲らず、遂には之を干戈に訴えても自家の非を成すを常とす。 蓋し社会一個人の間には尚少しく徳義の働を許して、或は過を改め罪を謝して栄誉を回復するの道もあれども、国として一度び其非曲を世界中に披露するときは、事実の有無に拘わらず其汚名を雪ぐこと甚だ易からず。 過を改むれば其過は益々評判と為り、後悔して謝罪すれば其罪は益々明白と為るべし。 或は夫れまでに至らざるも、此方に少しく落度ありとて遅疑して差扣うるときは、敵対国の慢心を助るのみならず、世界各国に我が内幕を洞察せられて、遂に何事に就ても共に歯するを得ざるに至るべし。 是即ち古来今に至るまで国と国との交際に無理を犯して容易に謝罪したる者あるを聞かず、落度あればとて之が為に国の活動を差扣えたるものあるを見ざる由縁にして、偶々是れあれば其国力小弱にして非を遂るに足らざるの証として見るべきのみ。 例えば去年仏清葛藤の最中、仏艦長フルニュー氏が天津に於て李鴻章氏と談判結約のとき、郎松城の支那兵撤去の日限に付、条約書中の一節を、李鴻章の方にては仏艦長がこれを抹殺したりと云い、フルニューの方にては其事なしと云い、其孰れか真偽曲直は今日に至るまで能く判決する者なしと雖ども、爾来この間違いよりして仏清の敵対再燃し、更に干戈を交えて尚今日に落着を見ざることなれども、日月の後、其事支那の勝利に局を結べば曲は仏蘭西に帰すべきこと無論なれども、不幸にして支那の敗北と為るときはもろもろの悪、皆支那人に帰して復た顔色なかるべし。 左れば此条約書抹殺の一条、全く其時の間違いにして、仏清の曲直孰れに定め難きにもせよ、仏蘭西の為に謀れば力を尽して罪を支那に帰するの策を講ぜざるべからず。 若し或は極内実に於て仏の無理曲事にてありたらんか、最早や騎虎の勢なり、仮令い兵力に訴えても其非を遂げざるを得ず。 斯の如くして唯仏軍の戦勝とさえ為りて、支那より和を乞うに至れば、一切の汚辱は弱者の負担と為りて、仏人は世界万国に対し腕力に於て武勇者たるのみならず、道徳に於ても亦正義者の名を博すべし。 若しも然らずして仏人が此機に際して遅疑退縮せんか、其醜は天下後世にいよいよ流布して復た雪ぐに由なきことならん。然らば即ち今日其支那に対するの挙動を見れば、或は怨恨深くして自省の念なきに似たれども、国交際に於て権利の争は左もあるべし。 我輩は決して之を咎めず、寧ろ賛成して只管其活働を欣慕するものなり。 世人或は此事理を知らず、今の不完全なる文明の社会に居ながら、一個人の道徳と一国の道徳とを混雑し、国と国との国際に於ても過て改るを義勇とし、悔悟して謝罪するを正理とし、或は我れに意外の曲を蒙るも、事の曲直は百年の後に定まるなど称して之を度外に置き、修身論の主義を根拠にして仏蘭西の政策を許すが如きは、迂も亦甚しきものと云うべきなり。

脚注

(1)
『福澤諭吉全集 第 10 巻』(岩波書店、1960 年)pp. 234--238.