「不換紙幣」
このページについて
時事新報に掲載された「不換紙幣」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
不換紙幣
我輩は本月六日の社説に投機商たらざるを得ずと題して不換紙幣の弊害を擧げ如何にもして之を〓換の制に變する要を切言したり〓来偶然に東國の一友人に面會して其言を聞き益々感ずる所あれば今其大意を記して以て讀者とこの感を共にせんとす抑も此人は年來製〓の業に從事して常に三百名ばかりの工女を使用し毎年収繭の期節に幾百石の繭を買集めて生糸に製し横濱に賣込み又は海外の直輸出に托する者なるが多年營業の跡を顧るに海外の市塲にて時々日本糸の價格を上下するは固より珍らしからずことなれども此變動は商賣上の常にして深く恐るゝに足らず又仮令い恐る可きにもしろ營業者の身分として恐る可き箇條に非ず即ち商人たる者の正に智〓を〓て進退掛引す可き部分の事柄なれば敢て苦情なしと雖も爰に製糸家のために迷惑至極なるものは不換紙幣の一物なり近年日本生糸の價は海外の市塲に昂低するよりも日本國内に變動すること甚しく或は外に價を増すも内にては却って下落を催うし、内の騰貴に反して外に價を落とすことあり如何となれば生糸輸出の対價には銀園を請取りて此銀の價が時として昇り時として降るが故に生糸の價に對する價は常に同一なるも日本の通貨即ち紙幣に對するごときは其變動無窮なればなり此事相は獨り生糸のみに限らず日本國中の萬者皆然らざるものなき筈なれども我國の物産の中にて生糸は其産出高の大半を外に出すが故に其價の昇降は常に銀貨に密接して紙幣に對しては直接の〓なきものゝ如し例えば糸の價を問うに四百枚五百枚など稱するは其一個百斤の價が銀貨何百枚と云う意味にて之を賣買する者の十〓〓上には百斤にて銀貨四百枚なれば一斤にて四圓なり四圓の銀貨は紙幣にして何圓なりとて始めて紙幣上の時價を生ずることなくば生糸と紙幣との關係は正しく銀貨と紙幣との關係に異ならず或は語を替れば生糸を所有するは銀貨を所有するに等しと云う可ならん〓今の日本國中にて時に銀貨を買い又時に之を賣り以て利を射る者これを投機商と云う投機甚だ危し苟も正當の商業に從事する者は自から〓めて之を避けざるはなしと雖も然れども今日の實際に於いては〓に生糸仲買商のみか工業を目的とする製糸家にして危險至極なる投機の運命に當らざるを得ず去年春以來は銀貨の相塲も先ず穏にして収繭の時節より製糸賣上げの終に至るまで差したる變動なかりしが去年十二月朝鮮事變のために俄に銀紙の變乱を生じ僅か三箇月間に幾回か生糸商人の魂を驚かし昨今の處にては先ず一圓二十銭の邊に落付きたるが如くなれども其果して幾日間を持續す可きやを保證する者は天地間にある可からず今日とも知れず明日とも知れず一圓四五十銭に飛揚することもあらん又は一圓十銭内に沈底することもあらん是に於いて製糸家の心配と申すは本年の繭秋五六月の頃、地方小前の養繭者より繭を買集るごときに當て横濱の銀貨の相塲は何程なる可きや其時に銀貨騰貴すれば生糸の相塲も亦騰貴するは必定、生糸騰貴すれば随て繭も亦騰貴す而して此繭を買集るには騰貴したる價に從て然かも現金を拂わざるを得ず既に現金を拂って品物を引受れば即刻より製糸家は紙幣を手離して銀貨を所有するに異ならず然る上にて此繭を糸に製して外國人に賣渡すまでの其日月間に銀貨の價は如何なる可きや鬼神に非ざれば豫言するを得ざる可し一旦の不幸に逢うごときは幾百名の工女を使用して其勞を空うするのみならず〓に放下したる資本をも併せて之を失う恐なきに非ず然は則ち今より覺悟して一圓二十銭の銀貨を買い此銀貨の上に跨りながら五六月の繭を買集むれば其繭の相塲は何程其時に騰貴するも此方は一圓二十銭を押えて安心なる可きが如くなるも是亦作用に参らずと申す其〓けは銀貨の相塲二十銭内に下らずと誰か約束して違わざる者あれば甚だ妙なれども此變幻無量の怪物が十銭以内にも収縮したらば如何せん繭の價は銀貨一圓十銭内の本を押えて相塲を立て此方は一圓二十銭の銀貨を抱けり資本金の一割は早く既に此時に紛失したるものなり進むに進む可からず退くに退く可からず正當正業無毒至極なる製糸の工塲を所有しながら投機商と苦樂を共にして〓様の僥倖を狙い同様の災難に罹れと脅迫せらるゝものに異ならず云々と
右は製糸家の苦情にして我輩は之を聞き一言以て之を慰める手段を得ず唯尤至極なりと云う外なし蓋し此苦情は獨り製糸家のみならず茶商雑貨商等輸出承認を始として輸入引取商人も亦正しく同様の運命に際する者ならん是等の〓紙の變乱に直接する罹災人として間接には日本國中の工商以下無職業の貧富人に至るまで知らず識らずの間に謂れなく其財産勞力を興奪せられざるものはある可からず不換紙幣の毒害も亦〓大無邊なるものと云う可し方今世の中の經済先生は或は金利髙しとて之を心配し或は工業起らずとて之を〓め、貧者の無産なる者へは産を授けんと云い、運搬の不便なるものは之を起さんと云う等千案萬略其心事甚だ多端なるが如くにして我輩も素より同説なれども先ず是等は進取積極の部分に属する事柄なれば不換紙幣消極の害を除去して然る後の分別ならんと信ずるなり ●