「佛清事件の奇〓」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「佛清事件の奇〓」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛清事件の奇〓

文明社會交通頻繁の世の中にては凡そ他國に大事件あれば善惡利害必ず其影響を被るを常とす耳古き一例を擧ぐれば千七百年代に米國が英國に背いて獨立せし折、佛國にては忽ち其餘響を受け當時革命の梅蕾は新世界獨立の春風に吹かれて大に其破綻を促がせしかば後の歴史家も佛國の革命を評して米國獨立の返振力に成りたりと云えり夫れと是れとは事異なれども客〓秋の頃より佛清の間柄益咀嚼し〓湾福州の砲撃、東京の血戰、本年に入りては石浦寧波の水軍等東洋未曾有の大戰爭あり然るに我國は一衣帯水を隔てゝ此大戰爭を傍觀する位地に立ちたれば爲めに其影響を受けて發明利益する所少なからず先ず此事件ありたるが爲め我國の各新聞社よりは特に通信員を支那に派遣し其電報郵信は直に之を全國に傳えたれば我國中に人民も電信郵便の効用を知ると同時に新聞の効力の大なるを知り佛清兩國の強弱を知り又國交際の事情を知り隣人の失計を見て自から其覆轍を踏まざる覺悟を爲す可き必要を知り特に此際各新聞紙の論議する所は恰かも虎の見せ物の傍に居て虎の講釋を爲すと一般、自然世人の耳底にも入り易くして爲めに其外交思想を養成したること少なからず此他尚間接直接の好影響を擧げたらば三日三夜の長物語にも計へ〓す可からざるべしと雖も其中最も著名なる奇〓とも云う可きは此事件が彼の儒教主義を破壊して復た顔色なからしめたる一事なり

抑も我國正則の國是は維新以來西洋近時の文明を採用するに定まり〓運〓々奔馬の如く文明主義の一線を以て明治の昭代を貫き來り外國人も此有様を見て時に出〓の評を下したりしに物動を反動之れに〓くは事勢の自然、明治十四五年の頃より社會に一種の奇相を呈し復古の風潮上下に流行して古物を崇尚し〓套を欽慕し撃劍起こて〓刀を想い士氣奇妙に振りて實刀其價を増し抹茶挿花琴棋古〓〓の〓に至るまでも變則の風流男子に接して復た天日を見るに至り三千年前支那産の儒教主義は〓に再燃の兆を現わして〓底の古書學校兒童の卓上に陳列せらるゝことと爲りたれば古老儒流は雀躍して喜びに堪えず天の未だ斯文を亡さざる果して此〓運に逢いたりとて意氣得々たる其際に彼の佛清事件あり特に其福州砲撃の折には支那にて當代の師宗と仰がれ孔孟の室に入る可しとまでに評せられたる彼の張〓〓如何璋の如き平生果して何の書を講ぜしか風〓鶴〓〓に身を以て免がれ一封の捷奏は早く九重の天に達したれども其〓〓わんと欲して益顕われ今は貶せられて蒙古の〓客と爲りたる程にて儒流の師宗復た人に對す可き顔色なし敗將一身の勇怯、儒教主義を累わす理由なきに似たれども人間の感情は案外に鋭敏にして我國一般の人心は〓に支那流を喜びたる程に今は之を嫌厭することと爲り其嫌厭は無情の器具書〓にまでにも及び儒教主義の如きも亦其支那産たる故を以て漸く我國人の信用を失い最早兩三年前の地位を保つ能わざるに至りたり凡そ一國固有の文學は一般に論ずれば其國の盛衰と共に消長するものなれば儒教主義の如き縦い文明社會に通用す可きものならしむるも今後は永く其勢力を維持する能わず然るを況んや三千年前の陳腐説なるに於いてをや其流行の一時に止まりて偶然にも佛清事件の餘響に震倒されたるは決して謂れなきに非ざるなり左れば彼の儒教主義の兩三年前に一時再燃の氣運ありしは燈の將に滅せんとして〓其明を加えるが如く瞑目長逝の期に際して〓に一振の〓相を呈したるものにして單に其成行に任ずるも自から灰滅する日遠きに非ざりしならんと雖も之をして其自滅を速かならしめたるものは即ち佛清事件なるが故に我輩は儒教主義の現〓に陥りしを見て佛清事件の興りてを大に力あるを信ずる者なり