「佛國未來の成算果して如何 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「佛國未來の成算果して如何 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛國未來の成算果して如何 

本年二月浙江省の石浦沖にて佛清両艦隊の水戰ありてより佛軍の運動は一層一層よりも激烈なるを加へ當時馭逍澄慶の二號を撃ち沈めたれども餘怒猶未た収まらず=の三軍艦を追躡して直に轉して寧波を攻め甬江口を=て昨今=海を抜きたりと云ふ其最中に東京の佛軍は破竹席卷の勢を成して既に廣西省内に踏み入り頃日淡水を砲撃して遂に之を占領したりと云ふが如きクルベー鬼上官、向ふ所前なく清兵競はずして佛軍獨り盛なるの現况なりと申す可し佛軍若し此勢を以て進むときは天津港口は堅固なりと雖ども其北上の鋭鋒を支ゆるに由なく北京政府も勢の不可なるを見て、時の不利なるを知て、百計和を求ることとも爲らん此時に當りて佛國は何を以て其和に換へん歟歐洲各國の手前もあり叉釣合もあれば四百餘州を引き渡さゞれば和議は一切相成らずとも申されまじと雖ども兎に角土地と云はずんば必ずや償金と云ふ事ならん土地の事は今姑く之を置き元來國交際上に償金と云ふことは先方の罪業と之を處置するの費用とに割合はして若干の罸金を拂はしむるの意義なりと雖ども其罪業を商量するの天秤は甚た隨意氣儘にして喩へば奢侈品の禁止税の如く相手の之に堪へらるゝまでは際限もなく重きを加へて差支なきものなれば時宜次第にて殆んど其輕重の定度なきが如し今試に歐米諸國と東方亞細亞諸國との間に授受したる償金の多寡を掲けんに彼の薩藩士が島津三郎君の行列を銜きたる英人リチヤードソンを生麥に斬殺するや英國政府は徳川政府に五十萬弗、薩藩に三萬弗の償金を要求し薩藩の之を諾せざるを怒り直に軍艦を=島に差し向け其城市を破壊して終に其償金を得たり是れ英人一名を斬りたるの罪業は五十三萬弗に相當せりと認めたるが故ならん叉元治甲子の年、長州侯が馬關に於て外國船を砲撃するや英佛蘭米の四箇國は三百萬弗の償金を要求して之を四國の間に分てり叉明治元年の二月土州人が泉州境に於て佛人十六名を殺傷するや佛國公使は五條を以て我政府に迫りたりしが其一條は償金十五萬弗を得るに在りたり扨て叉支那の償金史を按するに道光十九年林則徐が阿片を廣東に焼き拂ふや英國政府は兵を出して清軍を破り其二十一年香港全島と六百萬弗の償金とを得んことを約したるに清廷其約を渝へたれば終に二千一百萬弗の償金を出さしめたり咸豐六年廣東道臺が盜船アルロー號の桅頭に掲けたる英國旗を撤去するや英政府は佛國と同盟して北京に向ひ城下の盟約にて四百萬兩の償金を出さしむることと爲りしに清廷再ひ其約を破りたれば英政府は直に其額を增して八百萬兩を要求せり叉彼の臺灣土民等が琉球島民を屠殺したることに就き我政府の師を臺灣に出すや==清廷をして五十萬兩の償金を出さしめたり近くば昨年諒山の事變あるや佛政府は清廷に向て先つ五千萬弗を要求し其後上海の談判にて之を一千六百萬弗に减したれども清廷之を肯せざるが爲め遂に今日の佛清事件を惹き起すに至れり叉我國より償金を朝鮮に要求せしは前後既に二回にして明治十五年大院君の乱には五十五萬圓を出さしむることを約し其内四十萬圓は客歳の末を以て之を朝鮮政府に還贈し未た幾ならず昨年十二月京城の事變あるに及んで叉々十三萬圓を要求することとは爲れり讀者諸君若し右の償金額に就きて一々其事情を參照し其償はしむる罪業と其償ひたる金高とを比較せば輕重殆んど定度なく唯要求者の隨意氣儘に出でたること分明ならん即ち彼の=山事變の後に佛國が五千萬弗を清廷に要求し其後上海の談判にて之を一千六百萬弗に减額したるが如き孰も償金に定度なきの例證なるが故に今後佛軍全勝を得て清廷和議を萬已むを得ざるの餘に發することもあらば其時佛國の要求は果して如何、算法外なる巨額を申出すことなしとも云ふ可らず特に彼の佛國は千八百七十年ナポレオン三世の治世に當て大に普魯西の軍に敗られ巴里城下の盟約にてアルサス、ローレインの二州を割き十億弗の償金を拂ひたるの前例もあれば佛國人は土地償金の授受に就ては俗に所謂目の肥えたるものにして拂ふに大膽なれば取るにも亦大膽なるが故に今後一日清廷に向て要求する所は或は世界千萬人の肝膽を驚破する程の巨額ならんかも知る可らず果して然らん其時に當て佛國は如何なる手順、如何なる割合を以て之を領収せんと欲する歟是れ亦未來の一疑問なり請ふ其次第を次號に語らん    

 (以下次號)