「 富源を深くすべし 」
このページについて
時事新報に掲載された「 富源を深くすべし 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
富源を深くすべし
近年我日本國の疲弊は頗る甚たしきものにして心なき人にても一見して民間の不景氣を知り得る所なり目下歐米諸國の市場を通覧するに决して諸業繁昌の時と云ふべからずと雖ども我日本の諸業不繁昌の如きは盖し亦例外のものと云ふべきなり日本の諸業は何故に斯く例外に不繁昌なるやと云ふに一種特別の原因あるに由るなり其原因とは他なし十八年來國内に使用し居る不換紙幣是なり明治維新の際國用給せず依て政府は無引換の紙幣を發行して一時の急を凌き爾後財政未た正に復せざるに明治十年叉西南の騷乱あり政府は止むを得ず更に多額の紙幣を發行して軍費を補給し翩々たる紙片は恰も落葉の秋風に舞ふが如く澤山なり此際不幸にも國立銀行の仕組漸く緒に就き全國百五十餘行の金庫は忽ち落葉の無盡蔵と變し秋風東西南北に旋回して萬木の梢を吹き狹き日本國は今にも朽葉の下に埋もれんづ有様なりし此時は即ち諸物價騰貴諸業大繁昌の折にして浮雲榮華の夢今正さに濃かなるの時なりしが爾來漸く紙幣を銷還し流通貨の額著るしく减少するに隨ひて物價は下落し諸業は衰頽し信用は落ち金融は塞がり曩きの榮華の夢は消えて痕なく雨雪霏々面を撲ちて凍餓の苦に堪えざるの悲境に陷りたり然れども維新の騷乱なり西南の戰爭なりこれを凌がざれば今の日本の文明に達すべからず國事を成すは費用を要し其費用を給するには紙幣を發行するか國債を募るか現金を徴収するか致すより外に工風なきものなるが故に不換紙幣=發の爲め今日我日本國に存在する悲風慘雨は明治今日の文明を買ひたる價なりと思へば強ち苦味一方の物にもあらず苦中自から一種言ふべからざる妙味ある物として以て聊か慰むべきのみ
全國の不景氣斯の如し故に日本の外にさへ國なく日本の安危に關してさへ心配なくば百般の國事を中止して一概に質素退守の策を施すに其工風なきにしもあらざるべしと雖ども如何せん今の日本國は數百年間鎖國の迷夢を覺まして新たに世界文明國の列に加はり他の富強先覺の人々と周旋進退して此際延引ながら遂に能く我獨立國の榮譽幸福を全くせんと熱望するものなるが故に其働きの尋常なるべからざるは論を俟たず非常の國運に際すれば非常の働きあるべき筈なり斯る非常の働きを爲さんとするにはこれに相應するの費用を要す今に當たり國用の多端なる避けんと欲して避くべからざるなり今日にもあれ敵國外患の來りて我を侵すものなきを必すべからず左すれば未た敵の來らざるに及びて陸兵を練り軍艦を造り水雷火を備へ砲薹を築く等皆焦眉の急務なりと云はざるを得ず條約改正の成ると成らざるとに關せず日本人は日に益多く外國に往き外國人は日に益多く日本に來り往來雜沓自他の交際日に益近密ならんとせり而して東洋二千年來の聖教主義及び其陋風俗は以て文明の人と交はるべからず必ず其教を變し必ず其俗を變し一身の内外總て文明開化して始めて能く人と親むを得べし文明の學事を進め文明の政治を行ひ文明の風俗を採用する等亦皆今日焦眉の急務なりと云はざるを得ず此等の急務を急施するには皆其費用を要するが故に今の不景氣にも拘はらず我日本國民は此等文武の國用を供給するが爲めに日に益其負擔を重くせざるを得ざるべし
然りと雖ども單に必要の國用多しと云ひて其都度唯収税の法案を工風するのみにては未た以て國の獨立富強を期するに足らず譬へば猶ほ源泉なき水流を汲むが如し速かにこれを汲みて速かにこれを涸らさんのみ武備も整へざるべからず文事も進めざるべからず爲めに國民に課税して其費用に供するは甚た可なりと雖ども此金を取集むるの傍に叉此金を生産するの工風なかるべからず課税の増加する割合に富も亦増加せんには何程の重税と雖ども决して其重きを感することなかるべし今日本は國費の増加を要す果してこれを要すとせばこれと同時に國民を富ますの工風を求めざるべからず然らば則ち之を爲すの法如何曰く外國貿易を盛にするに在り、外國貿易を盛にするに種々の方策あり中に就き第一に着手すべきものは何事ぞ曰く内國の運輸交通を便にするに在り、今や三菱共同運輸両會社ありて海運の便は先つ一と通り行屆きたりと雖ども陸上の運輸に至ては馬車は勿論人力車の便と雖ども尚ほ未た國内に洽ねからず况んや汽船と相須ちて其用を爲す文明第一の要具たる鉄道に於てをや各處切れ切れの線路を續き合せても日本國中にて今尚ほ僅かに百餘里の鉄道を有するに過きず運輸梗塞商路の通せざる决して恠しむに足らざるなり内地の各市場をして世界東西の市場に聯絡することを得せしめず坐して國民の富有ならんことを待たんとするは亦實に木に縁りて魚を求むるの類のみ今の日本は國用甚た多端なり國用の供給を豊かならしめんと欲せば國民を富ますべし國民を富ましめんと欲せば外國貿易を盛にすべし外國貿易を盛にせんと欲せば内國の運輸交通を便にすべし内國の運輸交通を便にせんと欲せば鉄道を布設すべし今の日本國民の利福を増進するは盖し此鉄道の右に出るものなかるべし