「英國と魯國」
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時事新報に掲載された「英國と魯國」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
英國と魯國
英魯両國の關係は近來漸く切迫の有樣に推移り両國の人心も甚た穩かならざる折柄近日の報道に依れば英國政府は本國の諸軍艦に解纜準備の命令を下したりと云ひ濠洲殖民地政府にても大に戒嚴する所ありと云ひ印度にては大兵をベルチスタンのクエッタに屯集せしめたりと云ひ香港大守は守衛兵の派遣を本國政府に請求したりと云ふに魯西亞の方にても五萬の兵を裏海の要港バクに繰出すと云ひ裏海よりトルキスタン地方を指して魯軍は續々進行すと云ふに倫敦よりの最近報にても英魯両國政府の戰備は今日まで少しも懈怠なく續け居れりとあるなど両國の和親は今にも破裂して戰塲に相見んとするの勢あるが如く然り扨英魯の両國が何故斯く不和なるやと其原因を尋るに兼て魯西亞は他國を侵略することを主義とし内國人民の文明は歐洲の最下等に位して其進歩の遲々たるをも憂へず一寸にても一尺にても唯其領地さへ廣くすれば名君賢宰相なりと尊重するの風なるが故に土耳古に中央亞細亞に支那に日本に苟くも壤土を接して〓の乘すべきものある塲所には必ず其臂を伸べて掠奪を試みざることなし殊に中央亞細亞地方は當代文明の風の未た吹き到らざる所にして魯國の侵略策を施すには最も便利なる土地なるが故に魯人は比年其慣手の權策を運用して噛呑を恣にするも僻陬の地方幸にして世人の注目を免かれたりしが昨年遂にトルキスタンの全土を蠶食し盡して更に其南隣アフガニスタンに及ぼさんとするに至りて漸く世人の注意を惹き中に就き英國人は其祕藏の田園印度の西北境と魯國の新領とは中間僅かに三四百英里の蕃地を餘すのみとの事實を見て其驚愕一方ならずアフガニスタンは我田園の藩籬なり魯人をして此上更に一歩をも進ましむべからずとて魯國政府に照會して先つ魯領とアフガニスタン領との境界を定めんとする折柄魯人は委細頓着なしに南に侵し入るより英國にても最早此上は兵力に訴へて魯人の貪慾を制すべしとの决意を示し露國も亦英國の多事を胸中に算し埃及事件を片手に携えながら其又片手の仕事に大魯西亞帝國を相手取らんとは甚た面白しとて其挑みに應するの氣振りを示し大兵を裏海に繰出してスハと云へば胡馬一鞭インヂユス河を躍り越えて北部印度を蹂躙せんぞと身搆へしたり是即ち英魯葛藤の次第にして其罪は兩國孰れに在るやを問ふに及ばず唯亞細亞地方占領の配分論なりと合點して不可なかるべし
此葛藤にして彌よ其頂巓に達し遂に英魯兩國の戰爭に及ばんか其戰爭の塲所は决してアフガニスタンの荒野に限るべからず日本の近海亦其戰塲たるに不都合なかるべし近頃英國が朝鮮の南海岸に在る巨文島(我對馬又は五嶋を距る日本陸路にして四十里計り)に其國旗を飜へしたりとの風説あるが如きは既に巳に其兆候あるものの如し英領の香港より魯領の浦塩須徳港に往來するに對馬海峽は必由の門戸なり若し萬一にして開戰布告の後英國艦隊にして浦塩港を砲撃封鎖することあり或は魯國軍艦にして敵の目を忍び拔け驅けして香港に一彈を放たんと試る抔のことあらんか日本海は兩軍進退の大道に當り各處の港津は日夜砲聲を聞き硝烟を望みて安堵するの暇かなるべし目下日本は佛清の曖昧戰爭すら尚ほ且つ局外中立の要否などとて許多の困難あり况んや英魯兩雄交戰の日に於てをや我輩は左なきだに多事極まる今の東洋極東部に更に又英魯両國の紛爭あるを願はざるは勿論今の英國と今の魯國との實勢を比較するに魯は到底英の敵にあらず英にして彌よ魯を敵とするの决心を示さんか魯は必ず一歩を讓りて平和を維持するに相違なからんと思はるる程の事なれば多分は戰爭に至らずして事落着すべしと信するものの萬々一の塲合を慮り英魯両雄交戰の日を豫想すれば轉た不安の思に堪えざるなり