「政治上の移住民」

last updated: 2019-11-26

このページについて

時事新報に掲載された「政治上の移住民」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

目下歐洲諸國にては社會の秩序既に定まり貧にして志あるもの世の繩墨に規々たるを屑し

とせざるものは社會の氣風に制せられて其身を安んじ其説を行ふの塲所を得ず俯仰顧盻我

目前を遮るものは悉く不平の種をして痛憤自から禁する能はず特に近來敎育の布及するに

隨ひ人生字を知るは憂患の始めにて世事を喜憂する人大に揩オ世を憤り時を慨し滿腹の不

平を齎らして世を終るものも少なからず即ち近年歐洲にて頻りに政治上の改革を企て事成

らずして身を他國に潜匿するもの多き所以ならん近頃千八百八十三年獨逸無名氏の著述に

係る歐洲文明多僞論と題するものを見るに其中に一有志家の傳を假作して歐洲一般志士の

生涯を代表記述せしものあり今其大要を左に掲くれば

はんす先生の傳

はんす先生は歐洲某國の産なり成童學校に入りて法律を學び業成るの後代言師と爲らん

とすれども官許を得ざる可らず、蓋し歐洲の習慣にて靴を作るには官許を要せず代言師と

爲るには官許を要す然かも代言を誤りて人を害すると惡靴を作りて人を害するとは其害や

一なり是に於て先生の不平知る可きなり先生年既に弱冠、異邦に歴遊して其學識を長せん

と欲す而して徴兵適齢に當る、先生輙ち兵籍に入り人生の自由其一半を束縛せられ居常怏

怏として樂まず偶々出〓して處女と結び遂に慇懃を通ずることを得たれども身兵籍に在る

を以て迎へて妻と爲すこと能はず是に於て先生の不平知る可きなり、其後先生兵役を免か

れ纔に自由の身と爲りたれば家屋を市街に新築して將に酒店を開かんとす而して家屋新築

の官許を得ざる可らず先生以爲らく市街は公衆の市街なり中に家屋を築くには官許を得ざ

る可らずとするも我野外の所持〓ならば家屋の有無、他人に關係せざるが故に官許を得ざ

るも亦可ならんと而して國法之を許さゞるなり先生家に商品あり日曜日に當て之を販賣せ

んとしたるに拘引の上罸金を課せられたり先生の居熱闇、頗る夜眠を爲すに困み終夜戸を

開て臥したるに警官來て巖に之を禁したり是に於て先生の不平知る可きなり、一日となり

翁蠶食の謀を抱き籬を先生の土地に結びたれば先生其無法を怒り之を法廷に訴へたるに訟

結んで解けざること數月、原告の申分は立ちたれども其入費を算したるに殆んど其地價の

二十倍に上りたり先生或る時觀古美術舘に到りれねさんす時代の圖書を縱覽せしに其中に

奇異の衣服を着するものあり先生見て深く之を愛し之れに摸擬して新衣服を調し意氣得々

之を着して外出したるに忽ち警官の譴責する所と爲れり他日先生同友を會して倶樂部を結

び政治法律を議せんとしたるに警官來て其名簿を調査し爾後解散す可き旨を異の地したり

是に於て先生の不平知る可きなり、先生百事志を得ず俯仰感慨の中歳月荏苒宿昔青雲の志

も今は頭髪と共に灰の如く遙に北亞米利加の天を眺めて其自由を欽羨しつゝある間に其妻

一日病に罹りて死せり先生曰く是れ糟糠の妻我れ割愛に忍びざるなりと乃ち之を後園愛樹

の下に葬りたるに警官百雷の大喝は忽ち先生の頭上に響き死體を一私人の邸内に埋葬する

は不埒千萬の所爲なりとて先生は忽ち罪を得、死體は發掘の上檢〔手偏〕視せらるゝに至

りたり先生妻を失ひ孤未煢々自から支ゆる能はず一日市に往て食を乞ふ警官先生を拘留し

且つ叱して曰く汝、乞食は國家の禁制たるを知らざるか先生答へて曰く知れり、然れども

拙者其理由を知る能はず拙者の食を市に乞ふや敢て人を妨げず唯默して我手を出し以て慈

善者の惠投を待つのみと言未だ畢らざるに警官聲を勵まして之を叱し遂に八日間の禁錮に

處したり先生其後救濟病院に至り罪囚同樣の待遇を受けしが一日途に舊知己の馬車を驅て

過ぐるものに遇ひたれば身の零落を愧ぢて低頭禮意を表したるに知己顧みずして去るを見

て先生大に〓み汝何ぞ無禮なるやと詰りたるに知己之に答へて無禮は汝の致す所なりと放

言して去れり先生不平窮て安んする能はず一夕意を决して身を河水に投したるに警官來て

之を引き上げ故意自殺の廉を以て禁錮に處せられ未だ幾ばくならずして其禁錮中歿したり

右は歐洲志士の一生涯を代表記述せしものにして事例少しく極端に走りたるの嫌なきに非

ざれども彼の虚無黨社會黨など稱するものゝ經歴に就き一々其心身の不平不滿を数へたら

ば或は右の事例に遇ぐるものあるやも測り難し乃ち彼の不平黨等が近來頻々政治上の改革

を企て或は其改革の方便として最も激烈なる武器を使用し政府探偵の巖なる身本國に潜匿

する能はずして他國に亡命するもの多き所以ならん斯くて他國に亡命したるものは今日の

處にては尚故郷の國事に戀々として其功名立身の地を異邦殊域に求むるの意なきものゝ如

くなれども事勢の自然、其地位を文明國に求めんよりは寧ろ之を劣等國に求むるに若かず

との頓悟を聞くことなしと云ふ可らず例へば彼の西伯利地方の鉄道も成就し又露國より支

那の背部に通ずるの道路も開くるに隨ひ彼の虚無黨の如きものも漸く其本國を離れ其文明

政府に敵するの武器を抱て支那の内部などに進入し一方の魁師と仰かるゝ抔の奇例もなき

に非ざる可し又社會黨、ふえにやん黨其他歐洲の政治上に不平ある黨人にして永く歐洲諸

國に潜伏するに堪えず亞細亞に亞弗利加に南亞米利加に漸く其遠征を試み又其地方に居留

來住する外商等と相結び據て以て功名立身の地と爲すこともあらば優等國政治上の不平は

之を劣等國に洩すこと爲り劣等國人の地位は之を從來に比較して一層の困難を加ふること

とも爲らん故に劣等國人は今後優等國より移住し來る人民中に商あり工ある其外に政治上

の移住民と稱する一種懼る可きものあることを察して豫め大に警戒する所なかる可らずと

信ずるなり(畢)