「此不景氣を如何せん」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「此不景氣を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

此不景氣を如何せん

民間不景氣の歎聲は數年前より漸く其聲高く全國都鄙尋常諸般の聲は唯一聲の爲めに全く湮沒せられたる有樣なり昨年一昨年の頃に於ては世間商工農業社會の人も幾分か景氣回復の希望を存し幾度か回復の吉兆を認めたりと稱して互に悦び合ひしも何時もながら認定の正しからざりしを悔ひて其都度徒らに沈鬱の度を加ふるのみなりし其状恰も洋中の漂流船が水天髣髴青一髮の邊に一帶の陸地を見出し陸ありありと悦びし甲斐もなく陸と思ひし其物は忽ち雲の正体を現して風のまにまに消失したる跡に殘りし舟人等が失望落膽の樣と一般なるべし近來に至りては世人も既に毎度の失望に諦らめを付け此不景氣は到底急に回復の見込あるべからず去年去々年の頃既に其頂巓に達したりと思ひしものも今年より見れば未た七八合目にも達せざる程のものなりし今年唯今の不景氣こそは間違もなく其頂巓なりと信するものの今年の暮か來年の春より顧みて今日の不景氣を見なば或は又七八合目の觀を爲すべきやも知るべからずとて斷然景氣來復の希望を絶ちたるものの如し人間の苦痛多しと雖とも希望の途の斷絶したるよりつらきものはなし今の不景氣は苦痛の頂巓なりと云ふべきなり

近來地方各地の不景氣困難は實に想像にも及ばざるもの甚た多し或は一村何百戸一齊に身代限りの處分を受けたりと云ひ或は全郡何萬人饑渇に迫りたりと云ひ或は施行の粥を〓て一時の死を救ふと云ひ或は農民黨動搖の色ありと云ひ或は何々の草根木皮を調理して人間の食料に充るの新法を發明したりと云ふ等其有樣は不景氣など稱する階級を疾く通り過ぎて饑渇の區域内に進み果して此饑渇を凌き生命を維持し得るの力あるや否やを疑ふの時節と爲りたるが如し年豊かにして國民飢に泣くとは此事ならん此有樣は我輩の言を聞かずとも毎日の新聞紙を讀み地方の通信を受取り地方より來りたる人の談話を聞き又身躬から地方を巡歴して親しく其實况を目撃したる人々の飽くまで承知する所なるべし今又一層簡易の法を以て全國饑渇の有樣を知らんと欲せば近來頻りに個々隊を成して我々の門前を徘徊する男女家族連れの新乞食に就てこれを叩くべし必ずや明白詳細の報道を爲し讀者をして身其地を踏み其事を見るの想を爲さしむることならん都門數百の乞食は地方流民の一部分なりと雖とも就て全國の困弊を知るには實に屈強の道具なるべし

全國の困弊斯の如し其人々の不幸續いては全日本國の不幸此上なしと雖とも爰に又差當りての當惑は日本政府の歳出入なり我輩は實際國庫出納上の細目を知ること能はざるがゆえに一々これが説を爲すこと能はずと雖とも民間の實况より察するに今年政府の歳入は豫期の額より減することあるも増すことはなからんか慈善者の施行する數椀の粥に生命を繋く者にして爭でか租税の義務を果たすの餘力あらん一本の杖一蓋の笠に身を托し流離顛沛する者にして爭でか租税の義務を果たすの餘力あらん果して然らば如何に收税の法を改良するも無より有を生するの工風なき限りは國民の貧困に準して租税の收入は減するものと覺悟せざるべからず斯の如く租税の收入先つ十分ならずとして顧みて歳出の方を見るに別に今年に限りて豫期の額よりも減少すべしと云ふべき程のものなく却て増加すべしと思はるるもの甚た多きが如し今回朝鮮事變の如き亦其一例なり此事變の爲め政府が臨時に費せし所は何程なりしや知らずと雖とも盖し莫大の金額なるべし若し果して我輩の推察する如く政府の歳出は多くして其歳入は少しとせば民間の不景氣即ち上下全体の不景氣なりと云はざるを得ず豈由々しき大事ならずや依て我輩は固く信ず讀者决して此不景氣を等閑視せざることを