「敬畏せられざるべからず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「敬畏せられざるべからず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

敬畏せられざるべからず

軍備の擴張は唯戰時に當て勝を制せんが爲めのみに非ず兼て又平時に在て和交を維持せんが爲めにするものなり戰爭の原因少なからず或は損害の賠償を求むと云ひ或は商賣の利益を保護すと云ひ其名其形一樣ならずと雖とも畢竟するに両國の内其一方が他の一方を輕蔑するの心其本因たるが如し若し両國互に相敬畏するの心あるに於ては平生の交際穩當を旨とし决して漫に無禮を加ふることなく不和の種子自から絶滅す可きなり好し不和の原因あるも戰爭に必勝の算なき間は容易に破裂に至らざる可し則ち英米の如き此一例にして英國殖民革命の戰爭に於て米國は佛國の助援を得辛うして國の獨立を成したりと雖とも人口未た衆からず國産未た富まず當時英國の富強を以て之に臨まば一撃以て勝を制すべきの觀ありしが故に忽ち千八百十二年の戰爭となれりと雖とも幸にして此時も亦米國の勝利に終りたるを以て是れよりして英國漸く米國を尊敬するの心を生し以後メエン州の境界論なりニウ イウンドランド 漁獲の事なり種々の問題起りて両國間の平和殆と破れんとするに至りたること數度なりしと雖とも遂に戰爭に至らずして止みたるは何ぞや英國は米國と戰ふの不利三百萬弗の償金を拂ふに勝れりと合點して干戈に訴ることを思止まりたるのみ又近くば佛清今日の戰爭を見る可し佛國宰相は公然議院に於て支那は數ふるに足らずと明言せり以てその輕侮の甚しきを察す可し支那若し平生兵備整ひて他國に憚らるる程のものならんには去年諒山事件に付き佛國の支那に要求する所决して彼れが如く大ならず其談判も必ず速かに完了したることならん輕侮の心常に戰爭の實因たること論を俟たざるなり

縱令両國の國力に多少の差等あるも其差等大ならざる限りは敵に對し我全力を盡すにあらざれば勝利を期し難し斯くては内國の疲弊少からざるのみならす敵と交戰の際に當て隣國に其虚を窺はるるの虞あるが故に少し計り國力劣等の國なればとてこれに對し决して容易に手を下し得るものにあらず然れとも國力若し非常の差等あるときは強者は全力を盡すに及ばず一擧手一投足の勞にて十分なるが故に何時にても兵を起して〓國を犯すを得可し此故に國小弱にして兼て他國に輕侮せらるること愈甚しければ愈不時の戰爭に陷るの恐ありと知るべし例ば彼の千八百五十四年黒海の戰爭の如き露國が俄然土耳古に向て其首府コンスタンチノープルの海峽を要求したるに起れり露國如何にボスポラスの海峽に垂涎するも平時土國を敬畏するの心あるに於ては決して斯の如き不時の戰爭を起すことなかりしならん

扨一國の他の諸國に敬畏せられ或は輕侮せらるる所以のもの其の原因少なからずと雖とも概して武力の強弱に因ることなり人或は云はん米國の如きは其常備軍三萬に過きず軍艦砲銃皆舊式にして今日の實用に適せず然れとも世界萬國一も之を輕侮するもの無しと夫れ然り豈夫れ然らんや米國の常備軍甚た少しと雖とも國民常に銃器を取扱ふに習熟し且つ愛國心に富めるが故に國難一たび起るときは忽ちにして幾十萬の精兵を得ること難からず且つ其現存武器の如きは縱令實用に立ち難きも新銃新艦を製造すべき資財甚だ豊かなるが故に一朝にして精巧の機械を整ふるを得るなり彼の南北戰爭の時三十日間にして堅固の軍艦を製造せりと云ふが如き是れなり故に米國の世界に尊敬せらるる所以のものは矢張り其武力に基すること知る可きなり露國の如き其國甚た富むに非ず其人智甚た進めるに非ず而して尚世界の尊敬を受くるは何ぞや是れ唯七十萬の常備兵と三百餘艘の軍艦あるに因るのみ兵備の多少は敬侮の分かるる所たる亦論を俟たざるなり

今我日本國の外國交際を觀るに頗る和親にして他國の尊敬を受くるものの如く然り然れとも尚ほこれを審かにすれば是れ唯慈母の愛子に於けると一般のものにして我に對し一點畏懼の心あることなきを知らん彼れの心中を察するに日本は黄色人種の國なるも不思議に西洋の文明を好み之を輸入するに汲々たり殊勝の至りなり宜しく愛育す可しと云ふに外ならざるのみ但し國交際は誠に冷淡なるものにして一旦自己の利害に關するの問題あれば先きの慈母は忽ち變して無情なる繼母の所爲を行ふを通例なりとす故に今日慈母愛を恃んで明日繼母の打擲を忘るるが如きは今の國交際に於て最も大なる誤謬なりとす是を以て我國今日の和親を永久に持續し獨立國の幸福を永久に享受せんと欲せば武力を擴張して先つ與し易からざるを示し世間幾多の繼母をして容易に手を下し得ざらしむる樣早く用意すること最も今日の急務ならんのみ