「不景氣の原因」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「不景氣の原因」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

不景氣の原因

日本全國近年の疲弊は凶年餓歳にあらざる外甞て人の聞き知らざる程に甚だしきものなり

不景氣の歎聲四方に喧しきより以來既に四年ばかり此間幾度か景氣回復を希望したりと雖

とも毎度ながら其望を失ひ遂に今日の極度に達して尚ほ未だ回復の期を知らず實に驚き入

りたる始末と云ふべし抑も今の日本の不景氣は其由を來る處何れに在るや風災水害頻年並

び至りて遂に一國の富を奪ひ去りたる所謂天爲の禍なるものか將た紙幣濫發國民恒心なく

遂に一般の不景氣を招きたる所謂人爲の禍なるものか此問題を定むるは此不景氣を論ずる

の順序中第一着の事とせざるを得ず凡そ人事の變化進退は必ずしも一原因より來るにあら

ず種々幾樣の原因集合して遂に一事を成すこと普通の例なるが故に今回不景氣の原因を探

るにも單にこれを某の一事に限ることは穩當ならず必ずや幾多の原因ありて然るものなり

と定むる方事實に近からん然りと雖とも爰に一國の富盛に大害を爲す者なりとて兼て世人

の承知する一事あり不換紙幣濫發の事是れなり我日本國には明治の初年以〓不換紙幣の流

行甚だしく十年西南の乱に際して遂に其極度に達し二億圓に近き大小の紙幣忙はしく全國

を流通すると共に物價大に騰貴し一時は紙幣一圓八十錢を以て僅かに正金一圓を買ひ得る

に過ぎざる樣の現象を示したり今全國不景氣の原因を探るに當り全くこれを某の一事に歸

することは六ケ敷からんと雖とも此不換紙幣の發行は諸原因中にて第一の地位を占むるも

のなりと斷定して决して事實に相違せざるべし是れ我輩が一家の私言にあらず全國公論の

明かに認めて許す所なり

無より有を生せざるは宇宙法則の大本なり然るに不換紙幣は此法則を類聚し無より有を生

すること甚だ容易なり日本全國の富は何程なるを知らずと雖とも僅々數年間に無中より臨

時二億圓の購買實力を差加へられては兎に角に非常の激動を〓すべきは自然の事ならん二

億圓の紙幣は二億圓の需用なり需用頓に増加して供給足らず物價日に益騰貴し生産者日に

益富み日本八十餘州は變して一個の極樂國と爲りたり是れ即ち明治十二三年頃の實况なり

此頃よりして紙幣漸く減少して需用漸く減し物品積んで堆きを成せとも消費者の來て價を

問ふ者なく止むを得ず物價は日に益下落し生産者は日に益困窮し信用は死し金融は塞がり

紙幣一圓は殆んど正金一圓を買ひ得るの勢を現はし同時に全國到る處として途に餓〓(ひ

ょう・草冠に浮のつくり旧字)を見ざるはなきの不景氣に推移りたり是れ即ち明治十八年

の實况なり無より有を生する不換紙幣の一張一弛の弊害の其怖るべきこと斯の如し

不換紙幣の濫行は國の大害時なり故に兌換の制に改めざる迄にも其發行の高を減し紙幣と

正金との間に成る丈け價の差異なからしむること目下日本の財政上の有樣の如く爲すは實

に嘉みすべき事柄なり然れとも世人に向て我輩が特に忠告せんと欲するの一事は前に不換

紙幣を濫發して全國の理財を乱りたるの害は後に其濫發の部分丈けを回収して又全國の理

財を乱りたるの處置を以て全く之を消滅し又全くこれを償却し得べき性質のものにあらず

と云ふ事是れなりこれを譬へば過量に酒を飲んで身体を傷ひし後頓にこれを減して平日の

量に復したりとて曩きに飲み過ぐしたる酒の毒の消滅すべき道理なく隨て其身体も過量に

酒を飲まざりし以前の健康にすること能はざるべし若し果して健康の回復を望まば必ずや

臨時特別の攝生法を守り臨時特別の勞を費して然る後に始めて前の酒債を償ふことを得べ

し不換紙幣の濫發も亦斯の如きのみ故に今の不景氣は其原因重もに不換紙幣の濫發に屬す

る部分を回収したるのみを以て足れりとすべからず必ずや紙幣消却正貨流通のち要する外

臨時特別に曩の濫行の害を償ふに足る程の處置なかるべからず是れ我輩の信して疑はざる

所なり