「榮譽なき事業は終に興らず」
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時事新報に掲載された「榮譽なき事業は終に興らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
政治上の尊卑を標準にして全國民の分限を包羅せんとするときは其包羅中に在る事業は最
初より第二流の地位に下りて迚も盛大繁昌を望む可らず、人間社會は活物にして秩序紊
るゝが如くして其中に自から秩序を存するものなれば立國の諸元素をして各其働を逞うせ
しめ又隨て其榮譽を得せしむるの工風なかる可らずとの大意は前號の紙上に之を開陳した
り抑も人情の欲する所錢と榮譽と孰れか先後と尋れば錢は輕くして榮譽は重しと云はざる
を得ず兵士が千軍萬馬の間に奮闘して死を恐れざるは何ぞや戰勝の上にて唯賞與の錢を得
んがために非ず勇武の功名以て一世の榮譽を博し芳を萬代に遺さんがためのみ巡査が賊を
捕へんとして往々疵を蒙り時として一命をも失ふことあるは固より其職分とは申しながら
強賊を捕縛して纔に數圓の賞金を得る其金圓のためには非ず唯榮辱を重んずるの一心に〓
〓〓〓と云はざるを得ず消防の人足が火を冐し航海の水大〓暴風に働くも之を説明すれば
兵士巡査の危を冐すの意味に異ならざるものならん人生の榮譽を重んずる錢の比に非ざる
こと以て知る可し左れば今この事實を擴めて日本の學問と殖産とに就て論せん歟、今の學
問には榮譽あることなし學者が千辛萬苦して書を讀み理を講して其文明の結果は國を利す
ること多きも世間に之を知るものなく其勞は空しく其名は暗くして小政談者の浮世に喋々
するものにだも若かず偶ま學者にして稍や聲望あるものを見れば我輩が曾て云へる如く其
聲望は其人の學識に屬するに非ずして其人の政治社會に地位を得たるが爲のみ即ち日本の
學問は政治に對して遙に下流に位するものなるが故に迚も其隆盛を望む可らざるなり榮譽
を好むの人情は古今に異ならずして今の學者は勞して世にuなし其報酬たる榮譽を得ず苟
も心事脱俗して高尚至極の地位に達したる大人に非ざるより以下は誰れか區々たる學問の
暗處に安んずる者あらんや先進後進相率ひて第一流の政治社會に赴かんのみ又殖産に從事
するの勞は决して容易なるものに非ず辛苦忍耐を要するは無論時としては奇を謀り危を冐
して勇進斷行すること軍事の戰塲に於けるが如くにして幸にして其効を奏したるものは即
ち軍事の戰勝に異ならず然るに軍人は戰に勝て實物の賞典に預り又隨て無限の榮譽を博す
ることなれども殖産家の戰勝は唯錢を得るのみにして人生に最も重んずる所の榮譽は錢に
伴ふを許さず試に今の日本國中の農工商を見よ祖先以來幾巨萬の資産を所有し又一個の働
を以て一代に家を興したる者にても平民は則ち平民にして所謂政治社會以上に齒するを得
ず一地方の富豪錢を以て能く其地方の禍b制し又は外國の貿易に關して日本の商權を輕
重することあるも政府の小吏に逢ふときは公用外の交際にても一方は官員一方は無位無官
にして明に輕重あるが如し在昔封建の時節に或人が士族の傲慢なるを咎めて云く士族と平
民と等しく八文錢を投して洗湯に入り一方は大小袴を棄て一方は矢立前掛を脱し身外無一
物裸体の二人相接しても士族の頭は自から高く平民の腰は自から低きが如し此弊風の存す
る間は迚も日本國の富強は期す可らずとて歎忌したることあり言少しく戯に屬するが如く
なれども意味深くして殊に封建の時代既に此言を發するとは所見高しと云ふ可し盖し我輩
が今の日本社會を評して尚未た封建の臭味を脱却し能はずと云も其旨は三十年前或人の所
言と集點を異にせず唯當時は門閥の士族と百姓町人と相對するの權衡なりしものが今は士
族に限らずして政治社會の以内と以外と相對するの事情に變したるの差あるのみ斯る事情
にして國中の農工商家は仮令ひ殖産を勤めて最上の地歩に達するも榮譽の一段に至ては全
く望なきものと覺悟を定るが故に其心事も自然に萎縮せざるを得ず即ち此流の人が偶ま錢
を得るも其用法は唯僅に肉体の小快樂を買ふのみにして餘念あることなく常に小成に安ん
して遠大を思はざる由縁なり或は稀に殖産家にして榮譽心ある者と聞き其榮譽の由を來る
所を尋れば他なし政治社會の驥尾に附くものにして貴權の門に出入し又は官の金を借用し
又は特別の保護を蒙る等を以て無上の榮と爲し得々世に誇るものに過ぎず沙汰の限と云ふ
可きのみ
右の如く日本社會にては學問も殖産も直接又間接に政治の包羅中に存在して地位も榮譽も
なき小弱至極のものなれば其發達も亦遲鈍至極にして此まゝに差置くときは今後國に大學
者も出てず大富豪も興らずして空しく歳月を送ることなからん淋しき次第ならずや是れも
〓國の〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓〓〓〓〓〓〓〓開て世〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓學問なり殖産なり與に國力
の本〓に〓て外に對して自國の体面の由て以て輕重せらるゝ所のものなるに其本源なるも
のが内に在て先つ重きを爲すことを得ず如何にか外に向て爭ふを得んや盖し我輩が朝野の
先進識者に訴へて何か工風あらんことを冀望するも微意は唯この邊に在るのみ