「古學の専門は果して何等の用を爲すや」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「古學の専門は果して何等の用を爲すや」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

古學の専門は果して何等の用を爲すや

日本の教育は既に西洋の文明風と定まりて全國の人心に浸染し其大本は動かす可らず如何

なる人爲法を用るも唯僅に一時の外形に止りて曾て其根本に影響する能はずと雖とも教育

も其廣き意味に從へば研究す可きもの甚だ少なからず漢書も讀まざる可らず舊典も知らざ

る可らず古物も保存す可し古記録も詮索す可し是等は皆文明教育の補助として之を利用し

古に徴して今を知るの方便に供するものにして之を喩へば動物学者が今世の動物を吟味研

究するがため其學問の補助として前世界に生々したる動物の遺骨を弄ぶものゝ如し前世界

の遺骨固より今日の用を爲さずと雖とも動物の學漸く精に入るときは徴古知今のため欠く

可らざるものなり故に今大に文明の教育を擴張せんとて和漢の古書を講し舊典を研究し又

これが爲に古學者流に諮問するは即ち可なり取りも直さず其舊典と人物とを噐械として今

日の實用に供するまでにして其これを用るの精神は文明の大本に在て存するものなれば教

育の方向に不都合なしと雖とも其古學者流なるものが恰も自動の働を爲して自家の舊主義

を持張するが如き樣にては啻に教育法に差支を生するのみならず都ての人事を誤ること容

易ならざるものある可し例へば其流の人をして少年の教育を司らしめんか、之を教育して

第二の古學者を生せんのみ、或は辭書を作らしめ歴史を編纂せしめんか、古語を集め古事

を記し曾て文明の實用を爲さゞる可し、方今世間に辭書歴史等の編纂に着手するもの多し

と聞けとも我輩の所見を以てするに其古學者流の手に成りしものなれば必ず無用の長物な

りと今より豫言して大なる過なかる可しと信ず如何となれば從前この流の人の著書を見る

に何れも皆文明學の参考には供す可きなれとも其主義に至ては漠然として曾て數〓に基き

たるものあらざればなり僅に文書の一細事に於ても斯の如し到底今の日新の時に當て社會

の大事を托す可らざるや明なり盖し其人の精神は日本の舊世界に在て既に其形を成し歳月

の經過するに從て懐舊の念は其齢と共に益増長して益變通の道を閉塞し〓〓今人を教て古

人の法らしめ今世を鎔かして古型に改鑄せんとする其趣は今時の動物を知らざる者が前世

界の遺骨を集めて其活動を想像し前世界の生相以て今の動物の理を説明せんとする者に異

ならず遺骨の吟味時として學問を利すること多しと雖とも先づ今の動物學の一般を〓得て

然る後の事なり是れ即ち我輩が古學者流に自動の働を勸めざる所なり遺骨の智識一偏を以

て動物學を支配するに足らずんば古人の遺書遺訓のみを弄ぶ古學者流に今の人事を托す可

らざるの理も亦明ならん

古書典と古學者流は唯噐械として利用す可きのみ斷して其主義に從ふ可らずとは我輩の持

論にして古今これに反して人事を誤りたるの例は甚だ珍らしからず况して今時の活溌世界

に於て益其迂を現はして文明日新の學者は常に之を痛嘆し又愍笑して遂には之を度外に放

却し氣の毒ながら其向後の不幸を傍觀す可しと覺悟したる者さへある程の次第なれば老朽

の古學者に向ては我輩も敢て其心事の改革を祈らず自由に其爲すがまゝに任じて唯人事の

主位に立つを拒むのみのことなれとも爰に最も憐む可きは後進の少年生にして古學専門に

入る者なり世上一時の風潮とは申しながら両三年來都鄙に古學を講する者少なからずして

其學課を設けて生徒を呼ひ古學専門の學者を作らんとする者の如し前節にも云へる如く古

學も日新學の補助としては或は取る可きものなきに非ずと雖とも今其生徒入學の試驗法を

見れば何々の書を讀み得る者に限るべし何々の文を綴り得ざる者は之を許さゝるべしと

云々する其文書は即ち古學中の發端一部分たるものに過きず故に此種の學校に入る者は生

來日新文明の學問を知らず純然たる古學者流の門弟子にして既に其初歩を學び、尚進て其

奥に入らんとするの目的を以て入校することなれば其學藝の次第に進歩したる上にて如何

なる人物を見る可きや正く其先生に類似したる第二の古學先生を出現することならん我輩

の見る所を以てすれば今日既に古學先生の多きに苦しむものなり然るに今何等の所望あれ

ば後來に尚無數の先生を鑄冶し出さんと欲する歟、不審の至に堪へず或は説を作れば和漢

の古學も至極大切なるものと認め如何に日新文明の學を勉るも其最終に至ては和漢學を以

て之を潤飾すること緊要なりと云ふ歟、然は則ち其入學の時に文明の普通學に達して然も

稍や其上等の者を撰はざる可らずと雖とも實際に於て都鄙の諸古學舊典の學校を見るに募

集の學生は文明學を知らざるを以て却て重きを爲すものゝ如し到底此諸學校の精神を窺へ

ば古學を以て文明の補助に利用するに非ずして却て其主義を大本と爲し所謂和漢學を精神

にして西洋學を噐にするの陳腐言を實行するものと云はざるを得ず二十年前攘夷の世界な

らばいざ知らず明治の今日に在ては唯以て具眼者の笑を買ふに足る可きのみ盖し之を教る

者は自から其道理もあらんなれとも教へらるゝ者の爲めを謀れは誠に憐む可きなり

又或は今の文明騒擾の世に古學維持の策を説るに非ざれば其湮滅を計る可らざるが故に専

門の學校も亦必要なりとの説あれとも是亦過慮の言のみ古を好むは人情の一部分にして之

を奨勵せざるも自から之を勤る者あるのみか之を禁して禁す可らざる程のものなれば世間

往々閑散好事の人を出して之に從事するものある可きや疑を容れず其趣は世に骨董を弄ぶ

者の跡を絶たざるが如し古書畫を好む者あり古噐物を貴ふ者あり古刀古錢古瓦古石これを

保存せざるはなし又彼の碁將棋活花茶の湯等の藝の如し何れも皆人生一塲の好嗜なれば和

漢の古學も亦斯の如く决して其湮滅の憂ある可らざるなり若しも後世天下の人が全く古學

を廢することもあらば即ち是れ日本の時運舊を去て新に就きたるの日なり左りとて日本に

學問の痕を絶ちたるに非ず又日本國を棄てたるに非ず純然たる日本の文明主義を以て日本

を維持することなれば弔す可らず賀す可きのみ