「轉地作富の習俗も亦大切なり」
このページについて
時事新報に掲載された「轉地作富の習俗も亦大切なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
文明世界にては人生の目的たゞ多く富を獲るに在り世に立つに苟も富をさへ有すれば人間
萬事皆なその意の欲する儘にして富の向ふ所一人の敵對者あるを見ずとはこれ世人の明知
する事實にして今更言ふに及ばず偖その富を作るの一段に至りては人生營々身を終るまで
これに苦辛しその心身力の及ぶ限り勞して已まずと雖ども其道に因てせざれば徒爾の苦辛
何の用をも爲さゞることあるべし即ちこれを如何せば可なるやと云ふに富を作るには第一
にその土地を擇むこと大切にして例へば舊幕の昔し江州人が能く四方に出商賣を爲し就中、
關東筋には多く下りて專ら商業を營みその出稼ぎ中に利uの新路を發見して次第に富を求
め斯て諸方に商賣の土地を廣めて能く働きしかば江州には富豪家繁殖しその本國は素より、
關東邊に至るまでも江州人の出店多くして江州人と云へば富を作るに巧なる者なりしが如
し當時素より武士跋扈の世の中にて商人は都を言ふ可らざるの擯斥を蒙むり自家も亦たゞ
富を作るに汲々して一歩もその範圍を踰ゆること無かりしかば商人中に如何なる豪傑の徒
ありしや少しも社會の表面には現はれざりしと雖ども江州人が商賣の一事に付て節儉勤勉
なる上廣く〓方に商賣の地を拝み其故郷を去て違國まで出懸けたるの勇氣は往昔にても既
に人の知る所、今日江州に金滿家、商人の多きは申すに及ばず關東筋の豪家も江州人より
出でたる者少からずと云ふは現在右の成迹ならん歟又北越地方の小民が卑賤の業なれど米
舂き若しくは湯屋の三助の類を奉公口と定めて江戸又はその近〓に出稼ぎし些少の賃錢處
を積んで山を築き五年も十年も辛苦經營して當時他人にその醜吝を笑はるゝと雖ども後ち
には相應の資本を蓄へ別に獨立して一戸を張りその手並みの職業にて米屋の主人湯屋の亭
主ともなり又は大に豹變して立派なる商家の旦那となる等その富を作るに巧みなることは
北越地方の小民とて决して侮る能はざるなり江洲人及越後者と云へば往時幕政の頃は唯一
既に卑劣無氣力の賤商賤夫とて痛く擯斥したることなれどもこれは時世の風潮にて致し方
もなし事實文明の眼を以てその行爲を視るときは富を作るに勇にして能く土地を撰むこと
を知り獨り故郷にのみ戀々せずして遺利多き都會に來る立身の事業の爲めに輕くその地を
轉ずるは誠に感服に堪へざる次第なり
話が替はり近來米國亦は濠洲等に出稼ぎする支那人の如きその破廉恥醜体の極まることは
置て言はず單にその金錢を〓〓して富を作るに勇なる證據には元來卑屈極まりたる人種に
てありながら遠き數千里の外地に出稼ぎし少しもその郷國に戀々たる無きを見を知るべし
これ支那人はよく轉地作富の道を心得るものに似たれども實は唯習慣先例の誘引にて何と
はなしに出稼ぎの風氣を養致し云はゞ無我夢中に外國に往て金を儲けんと云ふ考へなるに
過ぎずと雖ども其考へ果して圖に中りて先例後例を曳き一般出稼ぎの風氣自然に支那國に
感染するに至りたる利uは少しと云ふ可らず盖し支那にてはその外國出稼ぎの途尚開けざ
りし頃にても内國には諸省の人民四方に出稼ぎして彼此れ互に遺利の溝口に集まり廣東
建邊の者は水夫業を働て直隷山東の地に赴き山西陝西邊の者は雜貨商を營んで雲南貴州の
地に往來し夫れも廣さ九十萬方里の大版圖内にありて東西旅行することなれば五十日や七
十日は空しく途の往來に費しその間は日毎に歩行き疲れて堪え難きの苦辛をも堪え漸くに
して目的の地に達する等斯く不便難澁の多き中を潜り拔けても更に諸省に出稼ぎするを憚
らざる由これ支那内地の事情を知る人等の知る所にて轉地作富の習慣昔しよりその國内に
行はれ居たる折柄、恰も好し西洋との交通にて汽船往來の便甚だ繁くこれに搭すれば遠き
米國にても船房の閑眠僅か二十日内外にて達するを得べくその外國出稼きの安樂至極なる
内地の旅に比較して話しにならぬのみか隨て勞すれば隨て儲け金錢の入り甚だ饒かにして
外國出稼きの旨味遂に忘る可らず斯る事情よりして支那人の外國行も頓に揄チしたるなら
ん支那人の卑劣醜穢など云ふ惡處をば咎めずして單にその轉地作富の一點より見たらばこ
の風氣を養成せん原因も多く其從來の内地旅稼ぎの習俗に出てし所あると云ふも亦可なら
ん畢竟廣東人が直隷邊に出稼きし山西人が雲南邊に出稼きすると云ふも仮に日本にてその
規摸を狹めて言へば江州人、越後人の旅稼きにて錢儲けを爲すと一般その郷里に蠢爾とし
て終身貧困を免れさる者よりも遙かに高尚の勇膽ありと云はざる可らず
前條支那人が能く地を轉して富を作ることを知りその足力の達するだけ船路の屆く限り如
何なる遠隔の土地をも憚らずたゞ儲けの一點を主眼として出稼ぎするは殆んど其國中一般
の風氣とも云ふべく我日本人も總てこの支那人の風氣に傚へよと云ふには非ざれども全体
日本人は古來より小島蟄居に養はれたる餘習なるが兎角地を轉するを厭ひ富を作ることは
欲せざるに非ずと雖どもその富を作るの地を揮むは甚だ拙くまたその地の擇み方をも承知
せざるには非ずと雖ども果斷奮發これを行ふの勇氣に乏しく要するに轉地作富の風習甚だ
以て乏しきが如し今日にてたゞあるものは北越地方の小民が例の三助米舂きて目的として
關東筋に出懸くるものかmしはこの不景氣の結果にて地方の人力車夫が都會に聚まりたる
など云ふの類にてこれを除けば孰れもその在所在所に土着して富を作るの土地を擇む考へ
は無く、不景氣なるが故に金錢なし景氣さへ恢復せば財は隨て湧くものゝ如くに応得たゞ
手足を休めて景氣恢復の時節到來と氣根較べて爲さんとするは甚だ以て余輩の感服せさる
所なり畢竟するに日本人は慨して作富の考へに乏しきなればこれより次第にその風氣を養
成するの策を運らしその膓を日本人にしてもその形を丈は支那人に傚ひ高尚なる心事を懷
を卑賤なる業務に當り獨り日本國内の一郷土壤にのみ蟄伏せずして作富の地を普く海外萬
國に求むべくこの一點に於ては支那人一般の習俗を學ぶと雖ども我輩决してこれを恥とせ
ざるなり