「經濟法自然の運行は不景氣を救ふに足らず前號の續」
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本文
水は卑きに就き物價の廉なるは需用を招く、今日の不景氣に際し物價既に非常に下落すれ
ば此品々は忽ち其商路を海外の市塲に見出し廣く世界の需用に訴へて大に利することある
べきに日本の農工商社會に向て此自然法が其力を逞うすること能はざる次第は第一國内運
輸の便に乏しくして有無相通するの法完全迅速ならず日本の物價廉は則ち廉なるに相違な
しと雖ども大にこれを輸出して文明世界の需用に應するの工風なしとの事は既に前章に論
述したり
第二日本の産物は文明世界の用に適せざる事 日本國内は何樣の廉價品あるとも唯運輸の
便に乏しきが爲めに何分にもこれを天下の市塲に持出して廣く世界の需用に訴ふること能
はずとは既に前章に論したる通りなれども今議論の便利を謀りて仮りに一歩を退き日本國
内の運輸の便は目下甚た完全迅速にして且つ廉なり物價の一高一下忽ち全國に其平準を得
るの仕組十分なりと定むるも矢張り日本市塲の廉價品を取て直ちにこれを文明世界の市塲
に賣込むべき工風なきを如何せん抑も日本の産物中に就き重立ちたるものを擧くれば米、
麥、豆茶、紙、生糸、海草、海魚、陶器、磁噐、漆噐、銅噐、絹織物、木綿織物、酒、醤
油、味噌等にして其噐具の形状製造の仕方等も悉皆日本人の衣食住に適當するものにして
日本人の生活には必用欠くべからざる品々なりと雖ども如何せん天下多數の文明國人等は
斯る日本流の品々を使用するに慣れず博多の帶意氣なりと雖ども以て巴里美人の腰を纒ふ
べからず數寄屋の帷子凉しと雖ども倫敦子友の夏服に適せず伊丹の銘釀日本男兒を醉はし
むべきも紐育の夜會に食卓を飾るに足らず鯉の濃汁下戸上戸をして舌打をせしむべきもす
ーぷの代用を爲すこと能はず况んや下駄傘膳椀鍋釜鉄瓶土瓶火鉢竈襖戸障子疊枕箸箱の類
をや又况んや絞りの浴衣小紋の羽織鼈甲の釵蒔絵の櫛烟管煙草入れ鼻紙入れ甲掛け腹掛け
脚半股引足袋の類をや多數の文明國人は今日未だ此等日本の製造品を使用して衣食住上何
等の快樂を求むるの工風をも知らざるなり古來日本人は東海の絶島に蟄居し世界と其風俗
習慣を共にせざる一種特別の國民なり此特別なる國民の需用に促されて發達したる技藝工
業なるが故に其製造品の文明國人の用に適せざるは固より恠しむに足らず唯纔に其用に適
すべきものは舊來日本流の工藝を以て當代文明流の器物を摸造したるものに過ず此等の新
摸造品中日本人の使用に供すべきものんは杖蝙蝠傘靴椅子卓子等にして是れも普通の日本
人の使用するものにあらずして唯近來少しく其衣食住を歐米風に擬したる開化紳士の嗜好
に投するものたるに過ぎざれば其量固より甚だ少なく到底今の日本の製造品中には内外普
通用のもの全く無しと云フ敢て其實を誤まらざるべし日本製造品の世界の需用に適せざる
こと斯の如し然らば則ち其未製品は如何と云ふに日本第一の産物は米なり此米日本人には
生活上第一の關係を有するものなれども文明國人には格別深き縁を有せず隨て文明國の市
塲には米の需用甚だ少なくして且つ緊急ならず到底米を賣りて日本の富を增すの望みある
べからざるなり唯目下最も文明國人の需用に適するものは生糸と茶の二品なれどもこれ迚
も純粹の未製品にあらずして幾分か半製造品たるの性質を帶るが故に早く既に内外人の嗜
好を異にし海外輸出の生糸茶は必ずしも内國需用の品と其製法を同一にせず一切の茶生糸
悉く皆輸出に適するものにあらざるなり然れども此等の小異は〓に些細の故障なりとし日
本全國田も畑も今月今日より悉く桑園茶圃に改まるの工風もあらば兎も角もなれども今日
桑茶を植付けて其成木を三五年の後に期する内には今の不景氣は十分に其威を恣にし飢渇
以て死を迫り桑茶の持主をして此世に在て其成木を見るの榮を得せしめざることならん桑
茶既に今の救急の用に適せずとせば他の新物産を興して徐ろに富を作らんとする諸策の迂
なる固より言ふに及ばざるなり是に因てこれを視れば目下養蠶製茶の人民のみは經濟法の
運行に依賴し今の文明世界に處して差支なしと雖ども他の一般の日本農工商業者は能藝あ
るも物品あるも其市塲は狹き日本國内に限りて廣く要用を世界に求むるの工風なく今日の
如き全國全般の不景氣に際しては唯寶を抱て空しく飢渇に泣くより外に個の妙策なきこと
明白ならん
以上論述する如く經濟法自然の運行に依賴して今の日本の不景氣を救はんとするには國内
の廉價品を海外の市塲に輸出して以て生氣を喚起すの外に工風なきものなるに扨此輸出を
企てんとするに當り第一には國内に運輸の便乏しくして有無相通すること能はず第二には
好し内國の物品を海外に輸送するの便利を得たりとするも今の日本の産物は文明國人の需
用に適せず左らばとて舊産物を廢して新産物を興し舊技を棄てゝ新藝を學ばんとするも到
底目下飢渇の急の間に間に合はず然らば則ち國民永久の計には何樣の工風もあるべきなれ
ども今目前に差掛りたる不景氣救治の問題には經濟法の自然運行を恃む策甚た不適當なり
と云はざるを得ず依て我々は更に一歩を進め人爲の工風を以て今の不景氣を救ふの策を講
せざるべからず