「青年志士國を去るの秋」
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時事新報に掲載された「青年志士國を去るの秋」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
青年志士國を去るの秋
日本の不景氣は近來その頂點に達したりとも申すべき歟過日來諸社の新聞紙を閲し自から
各地を巡歴しまた各地より出京せし人の話を聞くに全國人民の困究難澁は實に案外なるほ
どにて粥を啜り木の實を喰らひ尚ほ夫れさへも得難くして餓死を旦夕に待つもの少からず
斯る有樣にては世の中は早や不景氣と云ふ區域を通り過して既に疲弊の極處に屆きたりと
評するも可ならん兎に角に國の一大事にしてこれを救治挽回するには世の憂國の士も様々
に腦髄を苦めこの法試むべし彼の策用ゆべしとその智嚢に有らん限り論議周旋して少しも
怠ること無し目下の勢ひにては世人の考へも殆んどこの不景氣恢復策の一點に歸向し國を
思ふより外に餘念あらざるは深く我輩の賛成して措かざる所なり
偖この不景氣の折柄我輩聊か世の青年志士に向ひ勸告致したき事項と申すは他に非ず即ち
志士奮然國を去るは今の時を捨てゝ別に好機會ある可らずと思ふ事なり斯く言はゞ今の時
は日本國の大事その救濟の法を講するこそ實に志士の本分なるべきに去て外國に往けよと
勸む恰も父母妻子病氣の折、突然にもその家郷を見捨て去れと云ふごとく如何にも不人情
の論ならずやとて或は人の叱咤を蒙るも知る可らすと雖ともこれはたゞ双方考への往違ひ
と申すものにて強がち不人情の論にはあらじ成るほど今の日本國は不景氣の頂點に達し目
下の處にては官民一般その救濟の策を求むるに忙はしくその中には種々の妙工夫もありて
其策の講究甚だ以て大切なれど又同時に青年志士の爲めに計るときは世の不景氣に連れて
社會百般の事業は廻々に萎縮し萎縮せざるも遽に擴張進歩の目當ては無く志士の才識深く
理論の妙に通ずと雖ともその才識を實際に施すの地所を見出すこと難し幸に他の實力者あ
りて志士の才識を實施するの資を出すなれば誠に大幸なれども今の世の中は第一に此の實
力者が困弊したる時節にして細民の究苦素より申すには及ばねども金持ちの金も今は早や
人を助けて事を企るの力を失ひ金力腦力両者投合して事業を起すなどの考へは到底望みの
絶えたるものと看做さゞる可らず要するに世の不景氣増長して志士立身の塲所次第に狭く、
滿腔救濟の策を抱きながら遂にこれを試むるの處なくたゞ國の衰弊を嘆息するのみにては
恰も美玉を持して市に買手を見ざるが如く折角國の爲めにせんとするの精神も結局その値
打ち表白せずして止みなん左りとは惜むべきの至りならずや
今日の不景氣は半箇年の後ちに恢復を得へきや一箇年の後ちに挽回を得べきや或る方便を
以て果斷の救濟法を行へば兎も角も尋常一樣の手段にてはその挽回恢復に多少の年月を費
さゞるを得ず日本の經濟社會充分の健康に引戻らさる内は志士もその經世の才を施すに處
なく紙上の銘論空しく紙と與に滅するは必然賭易きの理なるがゆえに遺憾ながら今の日本
の地は志士その才識を働かすに餘地少きものとその諦めを附け更に眼を放ちて海外諸國の
有樣を觀察すればアメリカの如きオフストラリヤの如き國運隆盛、事業殷富の土地ありて
天賦の財源恰も志士の來り拓くを待設くるもの四方に相望み西洋の志士は既に往てその土
壌を開發し單身郷を出たるの貧生忽ちにして今は巨萬の富を累ね眞に人事の快樂を盡せり
これ一の極樂園にして西洋人は既にその園の快樂を享受する者なるに獨り東洋人にのみ限
りてこの事能はずとの道理は無かる可し勇進してその境に入るは甚だ無造作なる業ながら
偖今の日本國の志士の身として考へたらんには前途寶の山は現に眼前に在りと云ふと雖と
も故園同胞者の困究は又見るも哀れなるほどの慘状に陥ゐり居るの際、之を後に見捨て獨
り抜け懸けして一身の富を謀るも何か不人情なるに似て甚だ其心に快からず故園困究の折
柄なれば餘所に往くべき所をも往かず立留まりてその苦樂を共にするが義理人情なり父母
妻子疾病あれば子親夫として家を去る可らず日本國今日の疲弊は乃ち父母妻子の病氣同然、
この際に國を去るとは不都合至極なりと云ふ人もあるべけれどこれは唯郷國に戀々たる老
婆一片の丹心を寫し出したるものゝみ苟も志士の身分としては决して斯る氣弱き言を吐く
無き要するなり夫れも天下幾多の志士悉く郷國に在て一つには不景氣挽回の策を自から實
地に施行するを得又二つには己が立身作富の地を見出すならば無論故障の無きことなれど
も二つともまづ實際に覺束なき空望なれば早くこれに見切りを附け銘々自家の立身を主と
なし五年なり十年なり海外に往て勤勞黽勉せばその間隙には好機會に投して富を積むの手
續きを得ることもあるべく又尋常一樣の進みて逐ても勤勞相當の財を獲ることは難からず
日本に在て區々の老婆心に制せられ世の人衆と與に頭を病ましめ腦を痛めて世の不景氣を
嘆き側ら事業の無きを憂ふる間には歳月人を待たずして〓(馬に决のつくり)り五六年は
夢中に經過し去るべし機を見て為ざるは志士の事に非ず男兒今の不景氣の有樣を後に〓
(日に永)めて故郷を去るの哀情も葢し忍びさる所多からんなれど留まればとて夫にて不
景氣挽回の實効を奏するにも非ずとすれば今日忍び難きほどの哀情を割ち斷然外國に往き
多年の勤黽、衣錦歸郷の榮を買を歸るか又は身立ち家成り日本國外別に一日本國を創造す
るの譽を得る頃には日本國の不景氣も何時か既に挽回し國運隆盛、富強萬々歳の嘉境とな
り往昔國を去る時の苦しも今は相談笑して却て懷舊の樂みとならん志士國を去るの秋は正
に今日に在りと云ふべし