「英國内閣の辭職」
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本文
英國内閣の辭職
英國内閣辭職の報は載せて昨日の紙上に在り此報道は文意簡單にして委曲の事情を評にせ
ずと雖とも其事の確實なるは殆ど疑を容れずグラツドストン氏の内閣は去る千八百八十年
(明治十三年)四月廿八日を以て故ビーコン〓フヰルト伯の内閣に代りて就職し本年本月
九日に至りて辭職したるものなれば其在職の年限は凡五年三箇月なりとす千七百十四年ロ
バート 〓ルボール氏が英の首相となりたる時より千八百八十年に至る迄凡百六十年間に
英國内閣の更迭は都合四十二回にして其在職年限は平均三年八箇月なりと云へばグラツド
ストン氏が今回の内閣も决して短命なるものと云ふべからざるなり
グラツドストン内閣が今回辭職したる原因に付ては未だ辭職を得ずと雖ともジヤパン〓ル
の報する所に從へば其原因は政府が歳出入豫算の議に付下議院に於て失敗を取りたるに在
りと云ひ又之に關して種々の臆〓を爲すものありと雖とも我輩が一両年以來の事情より推
考する所を以てすれば此辭職の近因は何事にもあれ之を〓〓したる遠因は其政府の外交政
略が國民多數の信用を失ひたるに外ならざるが如し盖し自由黨即ちグラツドストン内閣の
主義は專ら内治の改良を務めて外國との交渉を〓たると稱するものなれば勢、外國に對し
て〓〓ましき政略をすること能はざる筈なりと雖とも年來の經歴を見れば全く外國との交
渉を避くるにもあらず〓り迚活溌に之を〓斷するにもあらず徒らに因循姑息を〓として務
めて一日の苟安を貪るものゝ如く傍觀者の〓より見ても歯痒しと思はるゝもの一にして足
らず例へば往年トランスワル征伐の一事の如きビーコンスフヰルト内閣が得意の侵略主義
を以て謂れもなくトランスワルを併呑したるより起りたる紛難の後を受けて敢て前政府の
政略を變更せず頻りに兵師を〓して無法にも調査一偏を目的とする民族を刈〓せんと務め
たるは外國の交渉を避くるとの主義に恊へる政略なりとも見えざりしが其〓到底其目的を
達する能はずして遂にトランスワルの獨立を認め許多の金と人命とを失ひたる後一〓も得
る所なくして其兵を本國に引揚けたるば大英國に取りて此の上なき不面目なりと云ふべし
然れ共〓〓は〓〓の事なれば今日に關係んしとするも近く埃及遠征の一事は今回グラツド
ストン内閣が辭職に至りたる大原因なること疑なし英國は埃及を其〓屬なりと認むるもの
から先頃アラビヤの賊魁マージーなるものが埃及の内地に割據して叛乱を起すに當り鎮撫
の爲めとてゴルドン將軍を其地に派遣したるに將軍は賊の圍中に陥りて進退するを得ず是
に於て英の人民は囂然として政府の處置を咎め速に援兵を發して將軍を救ふべしと政府に
迫りしかば政府も已を得ず援兵を出して之を救はんとせしに遂に之を救ふ能はず内地進軍
の目的をも棄てゝ空しく其兵を引揚け一旦占領したる土地も再び賊兵に奪領せられ最近の
報道に從へば今は其本營をドンゴラ迄引揚けたりと云ひ又グライム將軍の指揮するスワキ
ム道の別軍もベルバーに進軍の目的を達する能はずして僅に退きてス〓キムを守り他國の
兵の來るを待ち此地をも引拂んとするものゝ如し左れば今日の有樣にては埃及遠征の一事
は全く無益に歸したるものと云ふべし斯かる有樣なれば平素政府に反對する保守黨は埃及
政略に關しては始終力を極めて政府を攻撃し我輩が記臆する所のみを擧ぐるも昨年以來保
守黨が埃及事件に關し下議院に於て政府非難投票の議を提出したるは凡三國なりとす即ち
左の如し
(一) 千八百八十四年(明治十七年)二月十二日ノースコツト政府非難投票の議を發し同
月十九日三百十一に對する二百六十二票の少數にて消滅
(二) 同年三月十二日サー ミチエルヒツクス ビーチ政府非難投票の議を發し同十三日
三百三に對する二百七十五の少數にて廢棄
(三) 千八百八十五年(明治十八年)二月二十四日ノースコツト政府非難投票の議を發し
三月二日三百二に對する二百八十八の少數にて廢棄
右の如く反對黨は三度迄政府非難の議を提出したるに三度共に政府の勝利に歸したりと雖
とも其勝敗の差は甚た小にして且つ次第に減少したるを見るべし就中第三回の非難投票は
恰もゴルドンの凶報始て英國に達し國内の人心上を下へと騒擾する時なりしかば反對黨も
窃に必勝を期したるものゝ如くサリスベリー侯の如きは當時我黨は内閣に入るの用意を爲
したりとまで明言したる程なりしが政府の運命未た盡きずして此度も亦政府の勝利となり
たり然れ共僅に十四票の多數を以て辛うじて之を廢棄するを得たるを見れば政府が埃及政
略に付て大に人望を失ひたるの趣を見るに足れり斯かる有樣にて經過する間に先頃より又
阿富汗境界に關して露西亞と紛議を生し此紛議に付ても政府の處置は兎角に優柔不斷なる
こと多きを以て反對黨は又も其度に乘し此度歳計豫算の議案出るに及び遂に之に依りて政
府を〓たることを得たるものゝ如し之を要するに今回内閣の辭職は其外交政略が國民の信
用を失ひたるに依り而して其外交政略の過失は主として埃及政略に在りと云ふも大なる〓
なかるべきなり
グラツドストン氏の内閣が右の如き次第にて辭職したる上は之に代りて内閣を組織するは
何人なるべきやジやパン〓ールへ倫敦よりの電報に據れば此任に當るものはサリスベリー
侯ならんとの説なりと云へり此報頗る信すべきものゝ如し何となれば今日英國保守党の領
袖と稱せらるゝは上院に在りてはサリスベリー侯下院に於てはノース〓ツト氏及びチヨル
チル卿なりと雖ともノース〓ツト氏は優柔不斷なりとて党員中にも之を〓任せざるもの多
しと聞けば首相の位に昇ることを得べしとも思はれずチヨルチル卿は今日新進の政治家に
して大に其党の望を負ひ未來の首相なりと迄稱せらるゝ人なれ共英國の如き保守の風に富
める國に於ては卿の年齒を以て一躍して此任に當ること能はざるべし然るときは差當り先
つサリスベリー侯の外には今日此撰に當るものなかるべしと思はる侯の人物は未た大に人
に過ぐる所あるを聞かざれ共其年齒と履歴に至りては遙にノースコツト、チヨルチル二氏
の右に出つるものあれば保守党の就職が果して國民多數の意見に逆ふことなき以上の侯が
一党を統御して新政府を組織するに於て大なる妨害なかるべし今若し此人にして政府の首
位を占めノースコツト、チヨルチル以下保守党の人傑を擧げて其の内閣に配布し再びビー
〓ンスフヰルド卿の舊政を擧行するに至らば英國の外交政略は忽ち其方向を改め埃及、阿
富汗の交渉は勿論其世界萬國に對する政略も大に今日と其趣を異にし果斷活溌天下の耳目
を驚かすべきや明なり英人一たび足を擧くれば東洋に敵なし我日本人民も今回英國内閣の
更迭を見て毫も自國に痛痒なきものなりと思ふべからざるなり