「英國の東方政畧」
このページについて
時事新報に掲載された「英國の東方政畧」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
英國の東方政畧
英國の政事社會も自由黨内閣の辞職に因りて今は早や保守黨の天下となりぬ保守黨の勢力
は微弱にして下院の多數を制する能はざるべしとの噂頻りなれば一旦内閣を組織したる後
ちにて又急に失敗辞職の沙汰無きを期す可らず殊に來る十一月撰擧權擴張法を實行し中等
以下の人民に政權を分與したる上は世は又自由黨の世と爲るべしと雖とも兎に角に今回皇
命を受けて施政の要路に當らんと决心せしことなれば就職後その第一着の變革として先づ
外交政略を果斷にし前内閣の僚員が埃及に蘇丹に又阿富汗に毎度姑息の處置を施して全國
與論の〓責を蒙りたる覆轍を踏まざるべきは勿論、一層の活溌大に人の耳目を驚かす所作
あるならんとは一般世人の待設け居る所なるがさて其外交政略を活溌にすると云ふ一條に
至りてたゞ全体に外國の交際を果斷ならしめ動もすれば力に訴へて是非决せんとするやう
粗暴の所爲に出る筈もあるまじく交親國に對しては從前の内閣通り幾重にも友誼を盡し約
束を重んずるに相違なからん例へば近年英國と亞米利加との國交際の如きもその修親和睦
の趣は英政府の自由たり又保守たるに拘らずして常に同樣なることなれば今回の政變米國
に取りてはまづ左迄の影響を感せざるならんと思はる然るに之に反し露國の如きは既に自
由内治主義の英政府に對してはすら一時は流血惨酷の〓戰を引起さんとしたる程にて未だ
阿富汗事件の落着せざる今日突然にも英國に於て外交果斷の内閣を現出し他日の模樣次第
に依りては英露間或は一大血戰を見るやも知る可らず抔人の呟やくあるに至りたるは露國
に取りて實に不容易の政變なりと申すべきなり盖し英内閣今回の變更にてその外交政略一
般に活溌となるべき中にも四面八方の外國に對して皆同樣にその外政の威を示すと云ふは
實際六ケ敷き事柄にて必ず一方にその働きの偏傾する處あるならん即ち其内閣の主義政略
にて孰れの方向へか特種出色の運動を顯はし外政の鋭鋒よりこの一邊に向ふこととなれば
直接の衡に當るべきその外國の憂患は言ふに及ばずこれに付き間接の影響を蒙るものに於
ても利害の關係决して淺少に非ざるべきなり今回保守黨が内閣を辭職したる上にて果斷な
る其外政の向ふ所は果して何れの邊に在るべき歟若しもその働き單に歐陸にのみ止まりて
この東洋に波及せざることとせば甚だ幸福なりと雖とも我輩は東洋人等が未だ幸福を買て
安眠を催ふす能はざらんことを恐るゝなり
英國政事家の言に十八世紀の外交政略は佛朗西を敵にし十九世紀に外交政略は露國を敵に
すと云へり成程其の言の通りにして歴史上今を距る一世紀前の昔しに於ては佛國の威權甚
だ強大にて英國はこれを恐るゝ餘り頻りに其強を挫くことを勉めたれとも爾來露國の勢次
第に盛なるに至り土地を拓き侵略を行ひその敵とし恐るべきは今は露國より甚しきものな
きの有樣なるが故に英國の外政は目下露國の強を抑ゆるを主となし露國地中海に出てんと
すれば英國これを妨げ露國中央亞細亞を奪はんとすれば英國また之を妨け露國極東亞細亞
の道を開かんとすれば英國又々之を妨げて十九世紀の外交政略一に露國を敵にするとの評
實際に於て誠に相違なきが如し尤も歐洲の強國として英の畏るゝ所のものは佛あり獨あり
その他墺伊の諸國亦輕ろしく侮るべきに非ずと雖ともこれ等は英國の商賣を妨害し英國の
土地を侵掠して自家の利益を謀らんとする程の必要に迫りたるにも非ず唯尋常の親睦を修
めて國交際を全うすること容易なれとも露の一國はこれと趣を異にし少しにてもその貿易
を廣げんとすれば英の利益を害しその土地を拓かんとすれば英の版圖を侵すを免れざるの
位置に立ち北方冱寒の地内に〓(足に周)〓して永劫圖南の志念を絶たんと覺悟するに非
ざる限りは英國獣心を得て始終の平和を保つこと到底大雜事と云ふべし即ち露國がその貿
易を擴張するに付て是非とも英の逆鱗に觸れざるを得ざる次第と申すは露國は只版圖の茫
漠たる許りにして毫も適當の出入口なく北に白海の門戸はあれとも終年航海の出來得る時
日とては僅に數月間にして剰へその位置北極に面するものなれば恃で出入の港口と爲す能
はずこの外には黒海バルチック海の両口あるに似たれともこれも世人の知る通り黒海の出
口は英國が土國に應援して專らその要害を絶たしめバルチック海の出口にはサランド海峡
の險處ありて英艦一たびこの海面を扼守せば露船一隻もその艦を西するを得ざるなり斯る
有る樣なれば露國は最早歐洲の海岸に向てその港口を開くべき見込みもある可らず或は人
の所説にては露國は早晩土耳其を征討してポスホルス ザルザネルスの海峡を押領するか
然らざるも一朝事あるの際には必ず先つこの要害を占領するならんなど云ふと雖とも今日
にては各國の間に既に究屈なる中立海の條約もあるが上に英國の艦隊が存在する限りは縦
へ自家にてこれを占領するとも决して露國如きに其手を下すを許さゞるべきは明白なり又
露國政府の考へにても今日英國を敵に引受けて彼の要害を奪はんとするは何分其力に及び
難しとて地中海にその港口を求むるの無益なるを知悉し居るならん左れば露國が今後にそ
の海港を開かんと欲するの地は中央亞細亞か極東亞細亞の二あるのみにて地中海の海港
彌々見込みなしと諦めて附けたる上は其政略の方向を轉してこれを亞細亞の一邊に向け鋭
意經略して其目的を仕遂けんとするに相違無からん將た英國に於ても地中海にては既に露
の圖南を制止したりとは云へ露の政略一轉して頻に亞細亞に向ふの今となりては己れ自身
も亦亞細亞に廻はりて同しく其圖南の擧を妨げざるを得ざるが故に十九世紀の外交政略は
徹頭徹尾露國に反對しこの三十年來も両國の間歴然として常に軋轢の趣を存し本年に至り
て愈々事の表面上に現はれたるは中央亞細亞にて露國コマロフ將軍のベンジイを襲撃した
る極東亞細亞にて英國ドウ〓ル提督が巨文島を占領したること等にして此事變の〓に〓れ
ば英國が露國を敵とする東方政略の結果なりと云はざるを得ず然るにこの際英國に政變あ
りて保守黨〓内閣の權を握きることなりたるは〓々その東方政略に活気氣を與ふるの由縁
にして亞細亞の一洲英露互に相争ふことの激烈なる塲合ともならば其影響の及ぶ所决して
挟小に非ざるべきなり