「商人の智識最も後れたるが如し」
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本文
商人の智識最も後れたるが如し
日本は既に開國して世界中に交通の道を開きたりとは申しながら唯其道を開きたるまでに
して今日尚未た之を利用するに充分なる能はざるは遺憾至極の次第なり世界萬國の人は陸
續日本に來て商賣の利を爭ひ特に將來内地雜居の自由を許すことともならば外人が商賣營
業の爲めにとて一時内地に入込み又は永く諸方に商店工塲を設けて寄留常住するものゝ數
も大に増加するは勿論のことにて然るときは内外商賣の取引は混雜に混雜を加へ今日五港
を限りて僅に外商の營業を許可する時節柄とはその閑忙難易の相違實に話しに成らぬほど
なるべし斯く世界の人が日本に來ることの自由自在なる通りに我日本國人も亦この方より
世界萬國の市塲に赴て到る處に商賣の利益を求め一身を富まし一國を富ますの道を立つる
こそ當然の道理なるに開國以來日本商人の外出したる者甚だ多からざるは申すまても無く
將來とても前記外出の企てを實行し得るの人數凡そ幾何あるべきや我輩は今日より豫算し
て當分は先つ皆無ならんことを恐るゝなり竊に案ずるに彼の輩が斯くも外出嫌ひにして蟄
居を樂しみ利を重んするの身柄にして利の在る所を求めざるは怪しむ可きに似たれとも日
本の商人に限りて利を重んぜざるに非ず利の所在を求めざるに非ず唯其眼力尚未た國外に
達せずして新大利益の想像を〓中に畫くこと能はざるの故なりと斷定せざるを得ず小池の
鮒は池中に餌食を求るを知れとも江湖の魚生の快樂を想像するは難し、偶々水門を通して
湖魚の來るあるも自から畏縮して之と共に群を爲さず又我れより進て水門を出るを知らず
徒に舊時の小池水中に狼狽煩悶するのみ畢竟するに其智識の淺劣にして〓の大ならざるも
のなれば是れぞ日本商人に限りたる一種特別の性質と云ふ可きものならん盖し我開國以來
の星霜既に三十年匇々〓過し去て〓〓の如くなりと雖ともその間に國の智識は著しき進歩
を爲し日本近代の文明、政事に兵事に法律に學問に舊來の〓〓を洗除して直に西洋と〓〓
せんとするの勢に立至りたるは誠に見事なれとも商賣の一科は獨り文明の進歩に塲後れし
て依然三十年前の舊〓を保ち他の事物に比較して甚だ不〓〓なるは蔽ふべからざる事實な
りその〓〓には日本の學者にして理學哲學の奥妙を研究し西洋の學者と比肩して耻ちざる
もの甚た多く日本の法律家にして法理法〓の實際を極め西洋の淺〓〓に〓して優劣なきも
の甚た多く日本の海陸軍未だ〓〓ならずと雖とも必ずしも道を西洋の下に出てず日本の政
事社會〓〓〓〓なきを免かれずと雖とも必ずしも遙か西洋に劣るに非ず好し或は日本西洋
の間に大懸隔ありとするも今日の學問技藝政治等の事を取てこれを三十年前の舊物に比較
するに其相違雲泥も啻ならず三十年間他の事物は駸々として進歩變化を爲したる其傍らに
獨り商賣社會の一類丈は舊に依て古を守り日本全國の商人中西洋の商人と比肩し對比して
恥ななき者あらざるは勿論今日の商人は依然たる三十年前の商人にして古今を比較し毫も
優劣無きなり畢竟その由縁を尋ぬるに日本の商人社會には數百年來無學無教育の慣習その
儘に傳存し三十年前開國の風總て他の部局には吹入りたれとも商賣の一局丈けは堅くその
門を〓して西洋文明の主義を拒絶し商人に限りて獨り文明の教育を受くることを知らざり
し咎なるべし教育智識は商賣に用なしとは元來商人社會の常話なれとも今の開國の日本に
在て世界萬國の人と商賣するに决算の勘定は得意なれともアラビツク數字の讀方を知らず
大福帳の扱ひ授は銘人なれとも西洋簿記の法式を辨へずなどと云ふ如き有樣にては日本商
業の隆盛も到底期す可らざることならんのみ
日本の商人に教育を與へざれは日本の商業は盛なる可らず如何にもその説の通りなりとし
て偖今の日本國中この商賣の教育を授くる道は如何と云ふに商業學の門戸狭溢至極にして
他の政事法律等諸科の教育に比較するときはその不權衡亦實に甚しきものありと云ふべし
方今日本全國大小公私の學校中、小學校を引去りそれより以上の高商學科を教授する處即
ち政事法律を始めとし醫術文學數學物理等諸般の專門若くは各種學藝を科目とし二十歳前
後の壯年がその業を卒へて身を立て世に出るつの學校大數一千六百の多きに達する中に就
て商業の學を教ゆるものとては大となく小となく公私一切を合せて僅々十八九校に過ぎず
又右の高等學校生徒の總員は凡そ八萬以上の大數なれとも商業教育の生徒は只の一千内外
を踰へざる割合なり日本に商業教育の起らざる一目して瞭然たるべし西洋諸國市府の地に
は皆な商學校を設け置て商業講習の途を開き以て商人たるものに智識教育を與ふる由なる
が日本と西洋とは國民進歩の度合ひも齊しからず一概にこれを論ずるは無理ならんと雖と
も近時日本の文明長歩して教育隆盛、人智觸發したりと云ふ折柄立國の大本とも云ふべき
折角の商業社會には一も教育の及ぶことなく依然三十年前の天地を守りてこれに安んじ居
るとは實に驚き入りたることと云ふべし滔々たる天下の商人孰れも皆七八歳の頃より丁稚
奉公して十年十五年の店修業をこそ爲し上げたるなれども今の活世界に向ひ又今の外國人
に對して商賣を〓むの技倆とては毫もこれあらざるなり今や外〓内〓、内商外出の時節に
際し日本商人は何の覺悟ありて此時節に處せんとするか