「養蠶の業漸く盛なるに随て蠶病の豫防甚た大切なり」
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養蠶の業漸く盛なるに随て蠶病の豫防甚た大切なり
廣き世界の〓用品にして日に月に消費の限り無く増加するものは生糸なり日本國が温帯適度の地に位してこそ生糸を製出するに便利なること凡そ世界上に肩を比ぶる者の甚た少なきは明白なる事實なり國を擧て悉く桑田をなし人を擧て都て養蠶に従事するとも其捌け口の乏しきには苦まずして却て多々利益の繁きを見るべし薄利なる稲田若くは菜畑を耕作して營々貧苦に居らんよりも早く蠶業に從事して富身富國の大計を定むるべしとは毎〓我輩の申し陳ずる所にして此議論の明瞭確實なるを盖し何人と雖ども又これを否とする者無かるべきなり
左れば我日本人が倍々進んて養蠶の事業を擴張すべき必要は今更これを喋々するに及はさることと爲し偖在來現行の蠶種飼養法に就て爰に看す看す巨萬の大金を損失し一身の私の爲め一國の公の爲め甚だ以て遺憾至極に思はるゝ次第あるが故我輩は之を記して現時の飼養〓〓〓〓又全國將來に養蠶の志望ある人々に勸めて其〓〓〓實施し以て一身〓國の大損失たる其災を免れんことを冀望するなり盖し健全なる蠶兒が良好の生糸を吐〓〓〓〓健全なる父母が良好の子を産むが如し人種に遺傳あり傳染あれば蠶種にも亦遺傳あり傳染あり故に〓〓〓改良は恰も人種の改良の如きものにして悪しき〓〓〓〓〓悪き傳染を防き人種改良の筆法をその僅に〓〓〓〓〓〓改良の術と爲し得ること學理に徴して疑〓〓〓と云ふべし然るに今蠶種の改良に就て甚だ妨害となる〓〓症あり黒痣病とて傳染遺傳の力強き一種の〓〓なるがゆえ一度この病に罹りたる蠶兒は忽ち体中に黒々斑點を生し病勢漸く増加するに及んでは蠶兒の全身〓に灣曲して生育の力なく運動衰へ食欲減して終に夭折するか然らざるも委〓衰弱して良好の繭を成すこと能はざるなり且つこの黒痣病の傳染の烈しきはコレラ病よりも甚しく桑の葉より傳へ、入れ物より傳へ、指頭にて傳へ、空氣にて傳へ、其蔓延猖獗の勢ひコレラの傳染を防くよりも尚幾層倍の困難ありと云へり又その遺傳力の如きも極て鋭敏にして蠶卵、蠶兒より蛹となり蛾となるの間黒痣病は常にこれに幇着して少しも輕減すること無く一旦体に引受けたる上は其餘毒子々孫々に傳へ又傳へて已む時を見ず尚ほ〓〓梅毒が人の身体〓〓〓〓〓〓ものにして其働きは一層更に甚し故に蠶種に黒痣病のあるは人がコレラ病と梅毒とを同時に引受けたるものと恰も其形を同うして然かもその毒は尚ほこれよりも激なりと云へば斯る蠶種よりして良好の成績を得るの難きは言はずして知るべきの次第ならずや梅毒とコレラとて一所に煩ひたる人に向て人種の改良を求む可らずとすれば黒痣病ある蠶兒を養ひて充分の利益を求むる能はざるも亦同じ道理なり日本國の蠶種にこの病毒の有無は如何ん我輩の甚だ心配に堪へざる所なり
從來日本國の養蠶家なるものは單に實歴經験を本として學理の心得に於ては尚乏しきものゝ如し故に養蠶の熟否に關しても氣候の寒暖、飼桑の過不及等には注意甚た厚しと雖ども蠶病の一事に至ては或は其病原の推究に怠る者多くして今日に至るまで既に蠶種に黒痣病の蔓延し在るは實際に見る可きものならんと雖ども大抵は人の注目を〓れ特に近年蠶業の進歩に連れて不案内千萬なる人々までが我も我もと蠶兒を飼養しこれが爲めに惡症の病蠶を蒔散らして一層黒痣病の蔓延を助けたる加減もなきに非ずと云ふ甚だ憂ふべきの次第なり我輩今、該病の事に明かなる人の話を聞くに日本の蠶種紙には大抵この病毒を存せざるものなく蠶卵蠶兒と化して中途に斃死するは殆んと皆な該病の爲めなり尤も中には他の病症にて仆るゝもあらんかなれども其誘因に溯れば全く黒痣病の作用にしてその趣は胃弱の人が動もすれば他の病疾に罹るものに異ならずと云へり故に今一升の繭數を平均二百六十顆あるものとして一石の成繭は乃ち二萬六千の顆數なるべし然して蠶卵紙一枚の卵數は凡そ四萬五千個以上にして一卵一蠶、一枚の蠶神紙よりは四萬五千個の成繭を得るべき筈なるが故一枚の蠶卵若し無病息災にして悉く繭を成さば一石七斗餘の收穫あること容易なるに似たれども古來我國の養蠶家は一枚一石を充分の作なりとし中には一枚五斗の收穫を以て尚ほ甘んずる者さへあり因て假に養蠶の收穫は一枚七八斗即ち七八分の收入ある者として之を一枚一石七斗を得るの計算に照らせば一石乃至七斗餘の繭は蠶兒生育の途中にみな立消えとなるものにて、四萬五千個の蠶卵中二萬六千乃至一萬九千個は概ね黒痣病の爲めに斃るゝ者なりと知るべし故に繭の値段を平均一圓に五升替として一枚一石七斗の成繭なれば其揚り金高三十四圓を得らるべき筈なれども一枚の收穫一石なれば其揚り金は二十圓、七斗なれば十四圓を儲くるに過ぎざるなり固より途中に立消えとなる蠶兒は其飼養の勞費も少なくして成繭を失ふたる損失には異なれども兎に角に蠶卵紙面の半は無益に属し無益に蠶兒を養ふて無益に之を夭折せしむるは堪へ難きことにして之を年々内地の養蠶に使用する卵紙百五十萬枚の上に見積るときは公私の所損少々ならざる可し
且つ黒痣病の害は獨り前記の損失に止まらずして時としては一國の蠶業を瞬時間に衰頽せしむる恐れあるなり現に佛國の如きは去る千八百五十三年に産出したる成繭の斤量五千二百萬斤の大數に上り養蠶の業頗る隆盛を極めたりしが其後俄然情况を變更して大に衰頽を來し數年ならずして繭の産出以前の六分の一に〓〓したるにて人々大に驚てその原因を探偵したるに〓見に一種の疫病即ち黒痣病の發生ありて傳染蔓延の勢甚だ〓なるに因りしと云へり率ひ我日本にては未だ斯かる疫病の流行なしと雖ども元來黒痣病は遺傳々染の惡症を具へたる上、古來より既に日本の蠶卵中にはこの病症を存在して今日一枚の卵種その半は殆んとこれが爲めに斃死するの有樣なれば萬一この悪疾の流行して日本の蠶業を委縮せしむる危険なきを保し難し左りとは實に由々しき大事なれば日本全國の養蠶家も早くこの邊に注意して一には目下の損失を恢復し二には黒痣病流行を未來に防禦すること公の爲め私の爲めに甚だ大切の處置ならんと信するなり