「金融逼迫」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「金融逼迫」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

梅雨連日池の水の溢るゝ時に際しては早く堰の唐戸を開いて水をはかさゞれば必ず堤を破

り田地を流し非常の損害を爲すことならん此時は少しにても澤山に水を減して洪水汎濫の

災を避るは甚だ適當の處置たるなり然れども梅雨既に収まり土用の日熱くして世間旱魃に

苦しむの時に當りては堰の唐戸を開くべからざるは勿論一勺の水にても無uに池を流れ出

ざるやる粘土にて隙間を塞ぎ置かざれば永く池の四方に潤澤を及ぼして草木の生々を助く

ること六ケ敷かるべし故に池に唐戸は時ありてこれを開かざるべからず又時ありてこれを

閉ぢ詰めの唐戸もなきものと知らざるべからず今日本の理財の有樣を見るに六七年前紙幣

の濫行したるに梅雨時節池の水の溢れたるが如し此時に當り理財者の務は一圓にても紙幣

と減して通貨の價格を正當の地位に復らしむるに在り然れども紙幣既に大に減して全國の

農工商社會最早一滴の潤澤をも留めざらんとするの時に當り尚ほも紙幣を減して全國通貨

の高を少なくせんとするは旱魃の池の唐戸を開き置くの類にて當を得たるの處置と申すべ

からず昔しは昔しなり今は今なり昔しによかりしとて今も尚ほ其事を續けんとするは誠に

無〓〓の至と云ふべし我輩が紙幣の年々減するを見〓〓札の減するを見、中山道鉄道公債

賣上金の庫中に〓〓するを見、預金局の新設を見などして大に不安心の思を爲し今の不景

氣を却てu其度を揩オて遂に不治の重症に陷ることなきかを疑ふも决して無稽の心配にあ

らずと信ずるなり我輩の考に依れば本年度九箇月間に紙幣三百五十萬圓を消却せんなどい

ふ類の事は全く止めにしく夫れよりは却て今の通用貨幣の流通の高を揄チして漸く世間の

金融を滑かにし不景氣退治の策を運らすこと甚た肝要ならんと思はるゝなり左に其一策を

云はん

外国債を募りてこれを日本全國の鉄道資金に下すの工風を暫く見合せ内國限りの小規模に

て更に一策を案ずるに日本政府の國庫には四千六百萬圓の準備金あり今此金を使用して不

景氣退治の工風を運らしては如何や勿論此準備途中には金銀貨幣もありて我々の久しく希

望したる紙幣交換の準備金も必ず其大部分を占め居ることならんといへども今日に當り紙

幣交換の準備金を澤山に積み置くは格別其用なきが如し政府は來年一月より漸次に紙幣を

銀貨に交換すべしと布告しあれども來年を俟つに及ばず今月今日より始めたりとて何も不

都合はあるまじと思はる目下銀貨と紙幣との間には殆んど價の差異なし試に紙幣の代りに

銀貨を與へんといふに誰かこれを貰ひに來るべきや重き銀貨よりも輕き紙幣の方却て便利

なりと知る以上は道理に於ても人情に於ても先つ紙幣の方を好むならん左すれば外國貿易

用の爲め實際銀貨の入用ある人等を除くの外は决して交換所に來りて銀貨を買ふ者なかる

べし而して又當時貿易用に銀貨の入用甚だ多かるべきや如何と聞くに内國の物價下落して

輸出物は揩オ全社會疲弊して西洋品を消費すること少なきがゆえに輸出物は減し今の貿易

の釣合に於ては外國より貨幣の輸入する傾きはあれども内の貨幣が外に出る樣子は更にな

し外國貿易上日本より貨幣の輸出を要せざる限りは貿易商人といへども態々紙幣を銀貨に

交換せんとする如き偏人もなからん故に紙幣交換は今月今日より始めたりとするも銀貨の

準備は誠に僅少の高にて十分に間に合ふことならん併し夫にてもまだ甚だ不安心なり紙幣

引換の準備金は多き上にも多くなかるべからずといふ人あらば念の為め今月今日より實際

に紙幣と銀貨とを引換へ見るべし若し我輩の説に反し四千萬の銀貨忽ち國庫より濫出し又

日本より濫出することあらば其時は此準備金使用の事を全く思ひ止まりさへすれば夫れに

て何も間違は起らざるなり若し又我輩の説の通り紙幣引換を望む者少なき時は果して紙幣

引換の準備金を澤山に要せざる證據に付安心して不景氣退治用の爲めに出金するを得べし

是れ誠に道理明白の實驗法なり此實驗法にても尚ほ不安心なりと疑ふ人あらば我輩は萬一

の變に應ずるには内外國債の法ありて數千萬の金は瞬間にして辨することを得べきが故に

决して無用の心配の爲めに國の利uをも顧みざる如き拙と働くことなかれと云はんのみ兎

にも角にも準備金使用の事は决して大なる差支なきものに相違なからん

さて今此例に準備金より取出したる二三千萬圓の金ありとしてこれを何事に使ひ然るべき

やといふに我輩の素志を云へばこれを處々の鉄道工事に使ひ一方には世上の金融を滑かに

して不景氣を救ふと同時に一方には運輸交通の道開け全國の農工商業に非常の剌衝を與へ

て永く富強の基礎を定め度きは山々なれども今の有樣を見るに中山道鉄道公債二千萬圓で

すら隨分其使用に苦しむ折柄仮令へ此上二三千萬の金を揩オたりとて實際に使用する高は

相替らず甚だ少なく後の二三千萬圓も前の公債賣上金二千萬圓も前の公債賣上金二千萬圓

と同じく庫中に埋歿し居りて何の用をも爲さゞることならん夫れも我輩の兼て論ずる如く

鉄道技師に不足あらば其不足の分は外國より雇ひ來りて急塲の間を合せたらんには數千萬

圓の金のはかし口は如何樣にもなるべきなれども是亦行はれ難き事とすればさて其次ぎは

此二三千萬圓を以て日本政府の内國公債證書を買ひ悉くこれを消却しては如何と思ふなり

當時年七分利付の公債證書の相塲は額面百圓に付實際賣買の値段も亦百圓なりこれを百圓

にて消却すれば人民に得もなく政府に損もなし斯くて二三千萬の金が民間に散乱すれば

人々は此金を銀行に預くるもあらん更に又他の公債證書を買入るゝもあらん或は工業商業

を企るもあらん兎に角に二三千萬の金は新に民間の融通を助くるに相違なからん斯の如く

すれば政府は唯公債消却といふ尋常一樣の事を爲したるのみにて一奇を出さず一略を運ら

さゞるに其影響は民間の金融に及び不景氣退治の上に甚だ健全なる結果を得るならん是れ

我輩の所謂一策なる者なり我輩は此事に關し當局者の一考を煩はさんこと實に希望に堪え

ざるなり(畢)