「 新聞廣告の利用 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「 新聞廣告の利用 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 新聞廣告の利用 

東京日本橋の表通りは日本第一商賣繁昌の塲所柄にして地價も亦日本第一なり此邊に借地して商賣を營む者は芝區叉は本所區等の塲末に住居する者に較れば地代を拂ふこと毎月何十倍の高なれども之を厭はずして平氣なるは何ぞや同じ三間々口の店にて塲末にては月に四五十圓の商賣し日本橋なれば四五千圓叉四五萬圓の商賣を營み其利益も亦これに準じて十倍も百倍も多ければなり叉日本橋通りが何故に斯く繁昌するやと尋るに夫れは大都會の眞中にして東京市中いづれの方角にも近くして買物にも取引にも往來便利なるがゆゑなりと云ふ此説至極尤なりと雖ども往來の道が近くして便利なりと云へば日本橋通りの横町叉裏町にても同様にして商賣繁昌し隨て地代も高き筈なるに左はなくして地代店賃の高きは唯表通りに限り一足にても横町に這入り裏町に廻はれば萬事雲泥の相違にして地面賣買の價にても裏と表と幾倍の高下あるは定まりて動かざるの法なり左れば表通りの繁昌は唯市中道程の遠近のみに拘はらず別に其子才あることゝ知るべし即ち其子才とは日本橋の表通りは往來の人多くして爰に軒を幷べたる商店は多くの人の目に觸るゝが故に繁昌するものなりと决定して可ならん

東京の商人が日本橋通り往來の劇しきを知り、其店頭を人の目に觸れしむるの利益を知り、地代店賃の高きを厭はずして爭ふて此繁華の大通りに營業するは感心の至りなれども此穎敏なる商人輩にして今の文明世界に居ながら新聞紙の廣告を利用するを知らざるは我輩の特に不審に堪えざる所なり抑も新聞廣告に工業商賣の事を記すは自分の營業の塲所と家の名と其賣らんと欲し茲買はんと欲する品物の有様等を廣く世間に披露して日に幾千幾萬の人に知らしめ以て客を招くの工風にして其趣は往來繁華なる町を擇びて店を張るものに異ならず其商賣上に利益あるべきは誰れ人の考にも明白なるのみならず之を實地に試みたる人は現に其實地の利益を占めて滿足するものさへある其中に我工商社會一般の職として兎角これを憚るの色あるは我輩に於て其理由を解くに苦しむなり人或は云く新聞紙に廣告すれば廣告料を要するが故に利潤薄き商賣の割合に叶はずとの説あれども是れは甚だ請取難き話なりと申すは今の商人は自分の商賣の有樣を廣く人に知らしめんためにとて高き地代店賃を拂ふて市中繁華の塲所柄を擇び店には盛に看板を掛け、賣品には念入りたる商標を記し、店頭に商賣品の飾附けさへ種々樣々に工風を運らすのみか是れ等のためには錢を愛しまずして表を張りながら廣告料に恐るゝとは决して實地の話にあらず若しも新聞の廣告に入費を憚るならば町の表通りと裏通りとを較べて表店の入費を憚るべき筈なれども左ることのなきは决して入費の一事にあらざるや明なり我輩竊に日本國民全体の氣風を案して之を評すれば錦を裏にして木綿を裱にするものにして商人社會にまで自からこの風を及ぼし店のかゝりの奥ゆかしき其中に無限の意味を含み表向はとんと飾らずして正味の深切を以て客を引くの工風を運らす者多きが如し盖し祖先幾百年來所謂家のしにせなるものに依頼して輕卒に走らざるの趣意ならん、成るほど東京市内、山の手の横町裏通りに突然たる大店を構へて遠近を轟かすものなきに非す恰も隱君子が山居して名を知らるゝ者に似たりと雖ども是れは此れ三四十年前、人事沈着したる安閑世界の事なり文明繁多の今日一刻千金を爭ひ一目可否を决斷する忙はしき時節に當りて誰か遠く隱君子を訪ふ者あらんや、論より證據に近年東京塲末の大店向は勿論、飮食營業の小店までも次第に衰微して次第に中央に集るに非ずや然るを尚數十年前の安閑世界を忘れず、妙な處に力を入れて新聞廣告などは我家の体面に於て不似合なり却て世間の信用を落すなどゝて躊躇するは時勢の變遷を知らざる者と云はざるを得ず、夫れも老店の老主人が老成を以て自から氣取り新規の事は一切嫌ひと誓願を掛け斃れて然る後に止むと覺悟して自滅を待つものなれば是非もなき次第なれども今日後進の士人にして新事業を企て或は先代の遺業を承けて大に爲さんとする者甚た多し故に我輩は特にこの流の人に向て新聞廣告の利用を勸め他人に魁けして自家の業を盛にし其商賣柄に由りては日本の新聞紙のみならず海外發兌のものにまで依頼して商名を轟かさんことを冀望する者なり凡そ西洋諸國にて新に事業を開くに其資本例へば十萬圓の入用とあれば其内の五萬圓は廣告の費に充るを常とし引續き營業中も樣々に廣告を工風して其用は營業費の内にて重もなるものなりと云ふ迚も今の日本人の考には合點し難き事なれども相違もなき事實談なれば我工商社會にても聊か遠大の志あらんものは篤と注意すべき所のものなり