「 次の三菱會社 」
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時事新報に掲載された「 次の三菱會社 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
次の三菱會社
一書呈上仕候三菱會社と共同運輸會社とを合併し一大新汽船會社を設立するとの事は久しく世上に評判高く共同運輸會社に於ては去月の株主臨時總會に於て遂に兩社合併を可とするの議决もあり三菱會社に於ても其社議固より此合併を可とするものにして大体上に於ては少しも異論なしといへり唯共同運輸會社は三菱會社の如く一人にて所有する一私商社にあらざるがゆゑに一社の存滅に關しては數多の株主中固より銘々の議論ありて斷然此合併を非と致す者も有之よしなれども詰まる所長い物には卷かれるが世の習ひに付この非合併論も到底彼の合併論に敵する事の六ケ敷は明白なり右の如く兩社の合併は三菱の持主の好む所にして叉共同の株主の好む所なりとすれば何も合併の手間取るべき理窟なきに合併合併の評判ばかりにて一日一日と延引し漸く去る十五日に至りて始めて合併决定の公告を爲すの運びに至りたる其内情を察するにサア合併と申すに至りても尚ほ當局者の大に困難を感じたるは兩社の資産を評價監定する事にてありしならん共同の方は新立の合本會社に付其財産を取調ぶるは决して難事にあらず叉これを取調べて其監定通りの價にて新汽船會社に引渡すに於ても格別株主の異論は有之間敷なれども三菱の方は左樣手輕には參る間敷と申すは創立以來十餘年の古商社殊に一人の持物なれば其財産の取調べの艱難なるは勿論既に取調べを了りたる上にても其評價が持主の氣に濟まねば異存を申す事も甚だ易く賣り物と買ひ物は手拭一筋下駄片足の塲合にても隨分面倒なるものなるに况して日本第一の海の王とも呼ばれたる岩崎氏の身代を賣り買ひせんとするに於てをやその遷延遂に今日に及びたるは買主賣主ともに决して無理ならぬ事なりと存ず然るに此賣買の相談も去る十五日を以て彌よ片付き三菱會社の資産は五百萬圓と極まり之に共同運輸會社の株金六百萬圓を加へて都合一千一百萬圓を新汽船會社の株金と爲し新會社の株主は有限責任にて利益配當は向ふ十五箇年間年八分を日本政府にて請合ふことゝ定まり彌よ此合併論も落着に及びたりと申す事なり
扨新汽船會社設立の上は三菱會社岩崎氏は新會社に五百萬圓の金を所持し三菱の現社員等は直ちに新會社に轉任して是迄の如く相替らず海運の大業に從事することならん併しながら是迄三菱共同と別れ別れに業を營み居たればこそ両社今日の如き諸役員を要したる譯なれども二つの家族を合併して一つの竈で飯を炊き二家の世帯を一手にて支配する例の如く仮令新汽船會社の業務は從前両社にて營みたる分量に異ならずとするも既に両社を合併して一社の經濟に屬せしめたる上は其人を要する事决して今日の如く多數なるに及ばざるべし左すれば三菱會社にては海運上一切の財産を新會社に引渡すと同時に從來海運業に經驗熟練ある社員の人々をも轉任せしむる都合なるべけれども左りとて新會社にて實際無用の人を使用する譯には往きまじきゆゑ三菱社員中其幾分は合併成るの後といへども尚ほ從前の如く其會社に殘り居ることならん右の如く今回三菱共同兩社合併の事成りたる後三菱の岩崎氏には如何に此世を渡らんとせらるゝ了見なるにや金持の若隱居然として京都東山の邊に別莊を出來い花鳥風月に身を委ねて一生を面白可笑しく悲しく淋しく送らんとするか叉は從來三菱會社に於て海運の業務外に營み居たる長崎の造船所、高嶋の石炭坑、第百十九國立銀行、備中の銅山などの事業を監理し出來得る丈け此等の諸業を擴張し尚ほ使ひ切れざる資金は公債證書なり諸會社の株券なりこれを下して利を収むるの工風を爲すべきや叉は今回海運業を轉賣したる其資金と両社合併によりて閑散の身と爲りたる數年恩顧の諸士とを使ひて新に一大事業を企て先代の彌太郎氏が海運に名を博したる如く今代の彌之助氏も亦或る一業に雷鳴を轟かさんと志ざすべきや小生は岩崎氏の心事を承知致さず故に其策の何れに出るかを知らざるは固よりの事に候得共小生一己の考に第一策の若隱居は餘り感心すべき工風にあらざるゆゑ岩崎氏も必ず右樣の事は爲さゞるべしと斷定し扨第二策は如何と申すに造船なり石炭坑なり銀行なり銅山なり今より新に數百萬圓の資金を増して其事務を擴張する事は六ケ敷からんと思はる何となれば今の日本にては商用軍用の諸汽船を造りて英國の造船家と競爭し得べしとも思はれず日本の造船所は歐洲諸國東洋艦隊の修覆所位の處が頂上ならんか叉石炭坑とて金を掛けて矢鱈に掘出したらば供給が需要を超過して掘た石炭を持餘すことあらんまた銀行とて此日本の商工社會に幾百萬圓の元金を首尾よく繰廻はす事は甚だ覺束なし叉銅山とて俄に資金を繼入るゝ要用もあるまじければ兎に角に從來の業務丈けにて資金の使ひ所に差支ゆべきは必然なりと思るは左すれば第三策に出てゝ新に一業を企てんとして何事が最もよろしかるべきやと申すに今の日本には鉄道を布設するより外に適當の業なしと云ふて可ならん鉄道線路は何を擇ふべきやと申せば東海道鉄道か山陽道鉄道に勝るものはあるまじと答へて可ならん岩崎氏にして若し此鉄道案に同意し阿兄は海王たり弟とは陸王たらんと决心して兩社合併の殘務を了るの即日より社員を催促して鉄道布設に力を盡さんとするか爰に一つの難問と云ふは日本國の重立ちたる鉄道線路は近來兎角私設を許可せざる實跡あるがゆゑに東海道の如き山陽道の如き皆叉例の如く私設を許可せざる線路ならんと疑ふ者あること是れなり然れども小生の考に日本の文明富強にさへ便利なる鉄道なれば必すしも官私の區別を要せざる譯柄なるがゆゑに岩崎氏の企つる私設鉄道にして官許を得る事の難き理由は决してあるまじと思はる政府に依頼するに非ざれば日本國民は文明の利器を利用する事能はずと申しては日本國全体の耻辱此上あるべからず此恥辱を雪がんと云ふ人あらば願ふてもなき國の大慶事早く其願を許さんこと官私一般日本全國民の本意なりと存ずるなり唯小生の掛念する所は當時日本には鉄道技術師甚だ少なく隨て工事の進歩に大障害を被ふるよしに聞ける一事なり依て今回三菱會社にて鉄道事業に着手するに至らば他の鉄道會社の例の如く日本人にあらざれば工事を托せざるやうの拙を爲さず斷然外國より技術師を聘し來り東海道百里の鉄道を唯一年の間に造り上げて日本全國人の肝を冷させ玉へ男児の世に處して業を務むる固より海陸を擇はず才能あり金力ある者病衰翁の所爲に倣ふてグヅグヅ然と世を渡るを要せず大に奮て大に事に當たるべきなり早々頓首
明治十八年九月十七日 東京日本橋南の一商人
時事新報記者足下