「井上角五郎氏再び朝鮮に赴かんとす」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「井上角五郎氏再び朝鮮に赴かんとす」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

井上角五郎氏再び朝鮮に赴かんとす

朝鮮は東洋の一王國なり東洋の体制を論ずる者は必らずこれを餘處に見るべからず况してこの王國は北に支那及び露國あり三方海を受けて日本に對すれば唯一葦水を隔るまでのことなれば露國のため支那のため又た日本のため共に大切の地位に在るものと云はざるを得ず故に支那はこの國を以て屬邦なりと稱し又た露國がこの國の北方に志あることは多年一日の如く殆ど世に隠れなき所なれば我日本に於ても亦大にこゝに利害ある可きは勿論のことなり獨りこの三國のみならず近來に〓びて英國が一度ポルト ハミルトンを占領せし以來風説區々にして孰れか信偽を辨せずと雖も露國が其近傍の濟州又は對州に志を抱き獨逸も亦その邊に意ありとのことも共に一塲の架空説として全く抹殺すべからざるものゝ如しされば今日の朝鮮は實に諸國の共に視て以て緊要の一區とする處なるべし

朝鮮の内政を視れば明治十五年大院君の乱ありてこれがために偶然にも一度鎖國の夢を攪破せし以來民情常に静穏ならず但し朝鮮には古來より朋黨政治の習慣ありて其交迭は必らず兵力に由るの例なるが近來に至り大院君は王族を以て政權を得んと欲し閔族は外戚の重きに籍りて政權を専にせんと欲し互に相搆へて相容れず其間に閔氏の人々は國王王妃に依て政權を上に得たれども大院君は廣く在野の豪傑に結び國中の民望を得て其權勢下に高く、遂に其力に由りて變乱を作し一度閔族を退けたりこれを明治十五年の亂とすされども支那はこの時より忽ち朝鮮の内政に干渉して再び閔族に政權を授くること舊の如くし大院君をば本國に拘留して本屬の關係を天下に明かにせんとせり

この時より朝鮮の上下も漸く海外の事情を見聞して自から自國の面目を一新せんと欲するの意を發したるにや日本へも或は使節を遣し或は書生を送り樣々にして新日本國の政治人情を視察しこれを彼に移さんと熱心するに就ては頻りに交隣の親しみを厚うせんと欲する者も少なからず是等の事情よりしく時々朝鮮政府へ獨立事大の兩黨を生じ世人は事大黨を支那黨といひ獨立黨を日本黨をいへり故に當時日本支那及び朝鮮の關係はこの黨名に由りても其大概を察知するに足るべし然るに昨年に〓び支那は佛國と事ありて其事いまだ結局の見込もなき時に當り日本黨は京城に大事を擧て多く支那黨を殺し日本兵は國王を護衛せしが支那兵と戰て直に仁川に退きために東洋三國の一大關係を生ぜりされども其後日本政府は朝鮮及び支那と談判して事は平和に局を結びたり先づ以て一時の幸と申すべきものならん

偖て朝鮮の政權は相變はらず閔族の手に在ることなるが昨年の事變以來は兎角日本人を親しむの情に厚からずして昨年の變乱につきても樣々の疑惑を抱くが如きは畢竟その國人が事に迂なるが故ならんと雖ども之がために兩國交際の兎角滑かならざるの樣子あるは我輩の竊に心配する所なり殊に先般京城駐留の支那日本兩國の兵士引き揚げの後は朝鮮人も最早や憚る所無く専ら支那政府に依頼する其一例を擧ぐれば支那と朝鮮との間に電線を架設すること、朝鮮國王は問議官を新設して國家の萬機必らず支那に諮問せんとすることなど朝鮮人が支那に順從の意を表するは實にこの上もなき有樣にして今度大院君を放還するも或は是等の事情に原因せしことならんと云ふ者もあり此君の歸國に付ては元來君と仇敵たりし閔泳翊は主として支那政府に嘆願し又た閔氏の人々の中に其名も高き閔種默は陳奏使となりて支那に赴きこれを迎へ歸る抔その内情果して如何なることならんか實に端倪を知るに苦む所なり

近信に由るに大院君の歸國は九月下旬の由されば今ほどは既に歸國せしことならん扨て大院君が歸國したる處にて政權は尚ほ閔氏に歸すべきか左りとて全國士民が神の如く父の如くに尊敬せる大院君並に其黨が政權を得る能はざるも人民はこれを默視して止まんか、共に疑はしき所にして何れとも豫め明言し難し又大院君と閔泳翊などゝは如何なる相談をせしや、支那政府はこの人々に如何なる助言をなせしや、都て聞知する能はざる所なりと雖ども前々よりの行かゝりにて樣々の内情を推して考れば其政治上に多少の波瀾を生じて朝鮮社會の動搖は其大小に論なく今日より增すことあるも減ずることはなかるべし

夫れ朝鮮は内治外交共に至難の地位にあるものなり其政府は如何にして國内の平安を保ち又如何にして外國の干渉を免かれんとするか實に其政府のために一大難事なり又日本政府より論ずるも日本政府は如何にして東洋の一帝國たる面目をこの國に對し又この國に關係せんとする國々に對して保護せんとするか我輩はわが國の識者をしてこゝに注目せしめんとするなり

井上角五郎氏は夙にこゝに志ありて明治十五年十二月始めて朝鮮に赴く翌年七月朝鮮政府に傭れて筆を漢城旬報に執り其間廣く朝鮮の上下に交りて其文字言語に通じ特に其政治人情風俗を知るに至つては東西洋人中、〓に類を見ざることは普く人の知る所にして例へば氏が朝鮮事情の通信に於ても其一端を見るべし(氏は常にわが時事新報に通信の勞を取れり)又氏は朝鮮外務事宜に參與するの故を以て唯朝鮮の官途に信を得るのみならず在韓諸外國官民の間にも名聲を馳せ特に國王陛下の信用も厚くして身の重きを爲したりしが昨年十二月の變乱に逢ひ僅に免かれて日本に歸りたるは幸中の不幸又不幸中の幸と云ふべし此變乱に就ては朝鮮の士民ともに漫に日本人を疑ひ兎角打解けたる塲合に至らざるもの多しと雖ども氏が精神の在る所は天亦これを知る、國王以下諸臣一人として氏に疑念を抱く者なし故に變乱の後、わが日本より井上外務卿が全權大使となりて朝鮮に赴くと同時に氏は時事新報通信員として彼の地に渡り其時にも先づ京城内に入るを得たるは氏にして井上外務卿と朝鮮大臣金宏集との談判には氏の周旋せしこと甚だ少なからず其後金宏集は外務卿に照會して再び氏を傭ひ外務事宜に參與せしめたりといふ爾來氏は朝鮮政府に傭はれ居りしが去る六月中再び漢城旬報を刊行するがため(但し變乱以後は閉刊せしなり)器械買入れのため東京に歸り昨今既に其用事も整ひたるに付近日再び朝鮮に赴き以前の如く漢城旬報の事に任じて且外務事宜に參與する由

氏は朝鮮に在るの日廣く朝鮮の上下に交われども其交際たるや全く政治を外にする者なれば日本黨もこれを友とし、支那黨もこれを親しみ毫も其間に區別することなく唯一片の深切を以て交るのみなれども事に當りては公平に政治上の事務を判斷して數々大臣高官に説き國王に直奏することも少なからず仮令へ悉く容れられざるもみな悦んで之を聞き且その立言の正當にして毫も憚り避くる所なきの一事については大に名ありといふ

井上氏が朝鮮に於けるの勢力は前條の如し氏にしてこの國の難事を容易に處し得るや否やは决してこゝに豫言すべからず盖し朝鮮は支那と親密の關係ありて政治の働搖常ならざれば今日の大臣は明日の罪人たることも多く且氏の身に何ほどの信用あるも支那人に非ずして日本人なれば其立身甚易からず故に氏に望むに過大の事を以てすべからざるも氏が官報の記者たり、外衙の書記官たり又た廣くその上下に交際する以上は朝鮮の外交においては尚ほ一層の勢力を得るは决して難からざるべしその時において氏がこの日本支那及び露國の三國の關係に付き如何なる方向に主義を定めて一身を處するか又英獨兩國を如何に思ふかは實に氏の身上に付我輩の注目するところなりされども氏にして既に朝鮮の内治外交前に云へる如き事情なると知らば必らず我輩が希望する所のものを達して誤らず以てよく其夙志を遂ぐるならんこれを氏が後來に卜し刮目して其入韓後の動静を窺ひ兼て其通信を竢つものなり