「商家商會に生命保險を利用する事」
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時事新報に掲載された「商家商會に生命保險を利用する事」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商家商會に生命保險を利用する事
凡そ人の上に立て事を執り規則を以て之を支配する者は其規則の外に工風を運らして無形の際に自から人心を收攬するの方便なかるべからず例へば政府にては長官の屬官に於ける、諸會社にては頭取支配人の役員に於ける、商家の主人の雇人に於ける學校長の學生に於けるが如き各事務の成規ありて上の命する所、下必ずこれに從はざるはなし若しも從はざる者あれば成規約束の及ぶ限りに之を罸するのみ甚だ簡單なる始末に似たれども事の實際に當りては然く簡單ならざるもの甚だ多きが如し長上より命ずる所のものが唯公然の一方にして唯規則法律のみに依頼するときは下の之に應ずるにも唯公然たる表向きの勤務のみを以てして唯其規律に觸れざることを是れ勉め、曾て深切の情あるべからず多年文明の空氣に呼吸して法を重んじ義務を盡くの風に慣れたる者なれば格別なれども我日本國民の如く封建の時代より公用私用に論なく專ら情誼に由て支配せられたる者をして俄に其習慣を脱して法律の一方に移らしめんとするが如きは容易に望む可からざる所のものならん盖し政府の事務の如きは一に其章程の文面に據るものにして殆ど無情なるに似たれども尚且長官と屬官との間には多少の因縁を存して事務の取扱に當りては命令の外に勉強するものあり况して商家の主人が雇人を召使ふに於ては决して規律のみに依頼すべからず雇人と主人との約束は唯一箇年の給金何程にて家法可相守と申す位の事にして其他は總て主人の手心にて賞罸を行ひ以て勉強を促がすの風なるが故に時としては大に叱り又時としては大に誉め或は衣裳を作りて之を着せ或は直に金を與へ又或は積金などの法を授る等兎角して雇人全体の心を取留め情誼を以て家のために盡さしめんとするの工風のみなれども其事甚だ容易ならず、與へざれは怨み、與ふれば恩に慣れて增長し却て金のために身の品行を破るの例も少なからず主人の最も心配する所なり前年舊徴兵令の布告ありしときに或る豪商の主人が二百七十圓を納むれば免役と聞て大に悦び雇人共を召使ふに實はその者等へ金を與ふるの方便なきに苦しむは常のことなりしが今度徴兵令の布告こそ幸なら幼年の時より商賣に育て上げたる子供が丁年になれば免役料を拂ふて徴兵を免かれしめ金は其者の身に附かずして主人の恩義は永く忘るべからず二百七十圓の金を以て一人の心を買ふとは誠に安きものなり云々と語りたることあり商家の内情はこの一事にても窺ひ見るべし又維新以來世間に行はるゝ銀行其他諸會社は尋常の商家に比較れば少しく趣を殊にし其額取支配人にて惣轄するとは申しながら以下の役員は頭取の雇人にもあらざれば商家の旦那が子飼の小僧手代を叱り付け又寵愛して家内の者の古衣も與へ客來の時に殘酒殘肴を飮食せしむるが如き取扱も出來ず左ればとて一會社の仕事を活溌に又滑に行はれしめんとするには衆役員の末々に至るまでも其心を収攬すること甚だ大切にして殺風景なる事務章程の文面のみに依頼すべからざるは勿論のことなれば是に於てか事に老練したる頭取支配人は其社役員の爲に特に積金の法を設け又は賞與金の割合を定むる等種々樣々にして云はゞ諸役員の心を會社に引留る其紐を作るの工風は今の日本の状態に甚だ要用なる事にして我輩の竊に賛成する所なり就て案ずるに彼の商家又諸會社にて其雇人役員等に厚くするは詰り金を與へて其心を悦ばしむるの正味にして唯その之を與ふるの方法に巧拙あるまでのことなれば今その方法の一として生命保險を利用したらば必ず著しき功力あるべしと近日我輩の大に信ずる所なり凡そ人の心は存外に弱きものにして老少の別なく死を恐ざるものなし唯自身の死を恐るゝのみならず事に當り物に觸れば毎度死後の有樣を心に畫き吾れ死なば跡に遺る父母妻子は如何ならん弟は如何妹は如何と種々無量に心配するは至情なれ共如何に心配するも更にその甲斐あるべからず唯この時に當り聊か心配の荷を輕くするものは死後の遺産にして吾身死するも跡に遺りて是れ是れの金あり差向き老人の飢るともなからん子供の養育も先づ差支なからんと思へば心配の中にも少しく安心を催して自から慰むることを得べし仮に今、人に向て君の生前の事は他より預り知る所にあらざれども死後の始末は屹度引受け可申とて其言の信ずるに足るものあらば必ず之に依頼して其言を徳とすることならん左れば生命保險の法は人の死後に金を渡すの仕組にして取りも直さず被保人の死後の始末を屹度引受けて違はざるものなれば富豪の商家又は諸商會會社等にて(或は政府の或る官局に適當する處もあるべし)其雇人役員のために法を設て生命保險掛金の事を爲さしめたらば本人の安心して其主人又會社を徳とするのみならず人々の安心堅ければ全体の事務も自然に堅固にして冥々の間に大なる利益あるべし其方法の如きは或は月給の中幾分を引去りて之に別の金を足して掛金と爲すか又は臨時の賞與として其金を本人に渡さずして直に掛金と爲すか是れは諸商家諸商會の都合あるべきことなれば我輩は敢て其細目を云はず唯今の日本國の事態に從て多人數を使用するには公然たる規律の外に情實の因縁も亦甚だ大切なるが故にその結縁の方便〓〓〓生命保險の一法を利用しては如何と思付たるまゝの〓〓を陳るのみ