「コレラ病鎮壓」
このページについて
時事新報に掲載された「コレラ病鎮壓」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
コレラ病鎮壓
本年は春より夏の初に掛け日本全國氣候不順勝ちにて寒暖常の如くならず其上、永の雨にて濕氣例年に倍し地方によりては大水さへ出でゝ居間檐下十數日の間、水に浸され衛生健康に害ある天災の打續きたると同時に世の中は例の不景氣沙汰にて仕事の口乏しく職工人夫その日稼ぎの者共は錢廻りの惡しきが爲めに常よりも一層下等の食物にて命を繋ぎまたその衣服なり住居なり孰れも不往届がちにして彌々不潔となり下等民一般その不健康を增したるの實状なりしかば若しこれに加へて惡疫流行の兆でも現はれたらんには其蔓延の毒も一際強かるべし盛暑の頃の有樣甚だ氣遣ひに堪へずとて當時我輩も世の人と與に此事を憂へ居たりしに八月下旬長崎港に於て俄然コレラ病出現したり其病種は何れより來りし者か詳かならざれども兎に角に病症激烈、罹るものは多くは斃れ時にその蔓延の勢ひも甚しといふに〓我輩に於ても容易ならぬことに思ひ若し此惡疫の追々東漸して東京府下にまでも入込みたらんには其毒其害の惨酷らしき去る十五年同病流行の砌よりも一層甚しからん特にその病症の丁度西班牙にて流行中なるコレラと同樣の惡性質を有するものならんには倍々以て警戒せざる可らずとて大に危懼の思ひを爲したり然るに右のコレラ病も横濱までは一時押寄せたりしなれど遂に東京に入らずして其毒勢漸く衰へ今日は最早豫防實施の戒嚴を解かんとするに至れり此順序なればコレラ病も本年再たび流毒の心配なく一旦蔓延と覺悟せし惡疫の頓滅したる事誠に目出度次第なりと云ふの外なし
斯く惡疫の頓滅したるは秋冷の氣候となりたるが爲もあらんとへども豫防手當の往届きたるも甚だ與かりて力ありと云はざるを得ず即ち長崎港にてコレラ蔓延の兆あるや間もなく政府に於ては同地方を以て惡疫流行地と布告し關西の諸府縣に達して夫々検疫規則を嚴行せしめ流行地より來る人と物とに對しては逐一検疫を爲し又郵便船に醫師を乗組せ船中にて嚴に消毒離隔の法を行ひたる如き孰れもその手當に怠りはなかりし然れ共爰にまた〓〓意見の在る處を説明せんとならば今回コレラ病の蔓延を喰止めたる豫防法その功績は全く學問の力にあるものと斷言すべしその故は該病を豫防し撲滅したるの手段方便一として學理に基かざるは無くコレラの消滅取りも直さず學問全勝の姿なればなり尤も長崎その他九州最寄りの府縣に於ては實際如何なる手順にて豫防法を施行せしかその詳なることは未だ我輩の知らざる處なれど現在横濱港に於て長崎コレラの侵入したる其毒を撲滅し、また東京にてこれが蔓延を防ぎたる順序方法に至りてはその詳細を聞くを得たり然して我輩はその實地の模樣を聞けば聞くほど倍々以て今回の惡疫撲滅は全く學理實際の働きに因るの事實を信せざる能はざるなり今その撲滅手續法の大略をこヽに記して我輩所見の誤らざる次第を讀者に質さんとす
横濱にてコレラ病の初て發したるは九月十七日の事なり同所海岸通五丁目廿番地に宿り居たる高島石炭陸揚人夫凡二百名足らずの内の一人先つ該症に罹り夫より同番地居留の船乗人夫等追々コレラ患者となるを以て醫員はその傳染症なるを認め直に同番地と他の交通を遮斷し内に在るものを外に出さず外より來るものを内に入れず堅く人の往來を絶ち食物等の必需品を買入る等已み難き用事の起りて予防攻圍の區域外に出てんとする塲合には別に一人の小使を命し置てこれにその用を果たさしめこの外には社會と一切の交接を遮斷し且つ患者ありし家屋は床板を剥がしその床下の土を掘り病毒汚染の品物は容赦なく燒棄て、便所の糞汁はこれを汲取りて燒却し其跡は更に又五十倍の石炭酸水を用ひて充分に消毒法を行ひ(石炭酸は五十倍以下の水に混和したるものに非ざればバクテリヤを殺すの力なし通常使用する八九十倍の石炭酸水にては尚ほ不充分なりと云へり)また同室及び近傍に在る人夫等二百名は悉くこれを長浦の消毒所に送りて身体を洗はせ衣服等には熱氣消毒法を施し、消毒濟みの上横濱に連返り新に高島町に離隔所を設けて悉皆これに移らしめこの處も海岸通五丁目同樣、内外の往來を鎖し遮斷法離隔法并に石炭酸消毒法の三者を同時に嚴行したり然るに今回のコレラは甚だ惡症にて罹るものヽ過半は斃れ剰さへその傳染の勢も劇なりとのことより長浦件検疫所の外に横濱にては鉄道停車塲に検疫官を派出し東京にては新橋停車塲内に検疫官派出所を設け往復の列車に醫員を乗込ましめ陸路は荏原郡大森村に検疫所を置て行旅を検疫し海路は品川二の臺塲に消毒所を設け羽根田沖、金杉沖、上總澪に於て船舶を検査しその手配嚴重にして手落あるを見ず然して今日に至りては横濱のコレラ病は最早殆んと全滅し高島町の離隔所并にその後仮に設けたる義経丸九州丸の兩離隔船には患者絶て發現せざるにより悉皆これを解放ち且つ海岸通五丁目の遮斷地も最早氣遣ひなしとてその遮斷を廃止したるは本月四日の事なり又東京府下にても遂に一人の傳染患者なくして事濟み海陸の検疫法既にその要を見ざるに至りたるは甚だ以て悦びに堪へざる次第なり(未完)