「コレラ病鎭壓」
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時事新報に掲載された「コレラ病鎭壓」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今回コレラ病毒の蔓延を防止したるは重に人爲の力即ち學問の理に從ひ檢〔てへん〕疫消
毒離隔遮斷の四法を巖行したるに因るものなりとの次第は前日の紙上に於て粗ぼ述べたる
所なるが抑もコレラは毒の最も恐るべきは誰も知る通りその蔓延傳染の勢ひの劇烈なる一
條にして僅か一〓の種より動もすれば幾千萬の人に無慘の惡毒を押流したること其例し尠
からず本年西班牙國のコレラの如きも最初は三人五人の患者あるに止まる樣子なりしが
遙々病毒の廣がるに從ひ千人二千人到る處同日の内に枕を比べて斃死するの慘状に立至り
しことなり右の如くコレラ病は恐るべき傳染の力を有するものなりとせば凡そこの病の蔓
延を防ぐの良法は手早くこの傳染の道を斷つより外に仕方ある可らず若しこの毒の漸く廣
がりで東にも西にも所々に該病の發生を見るの塲合に至りては豫防は寧ろ手後れの時と申
すべし此時に差迫りて俄に檢〔てへん〕疫以下の諸法を施すとも時機既に後れて病毒猖獗
の勢に抵抗する事甚だ困難なるべきなり彼の西班牙のコレラの如きは若しや其豫防の手後
れしたる爲め一層病毒を助長せしめたる跡は無きか兎に角にコレラの感染の力烈しきもの
ゆえに檢〔てへん〕疫を巖にし消毒を密にすること固より以て大切なりと雖も今回コレラ
病鎭壓の好成蹟に就て考ふれば遮斷離隔の二法この効果も著しき者と思はるゝなり其故は
今更申すまでも無けれどコレラ病發生の一家屋、一町内若くは一區域をを遮斷して人なり
物なり一切の往來交通を絶切り又コレラ患者、患者の毒を感受したる者共をば遠隔の地に
連れ往き離隔法に基て都て他所との交通を禁止せばコレラ傳染の媒助物は他の健康なる人
に其毒を傳ふべき機會なきが故撲滅の功を奏すること最も容易くして且つ最も速かなるに
相違なきなり本年長崎コレラが高島並に島原の各所に傳染してその地を荒し立てたる原因
を聞くに高島は石炭掘り石炭擔ぎの人夫がその病毒を長崎より齎らし來りたるに出で又島
原は長崎出稼の下女下男どもが長崎に居堪らずして其郷里に遁歸ると同時に與に病毒を輸
入したるに因ると聞けり畢竟高島なり島原なり病毒傳染の援助物たるものが其毒と傳ふる
機會多かりしため該病猖獗の災を被むりたるに外ならず若しこの防禦の功を奏せんとなら
ば最初コレラ病發生の其家、其町に就て前記の如く遮斷法を施し又該患者を或る處に離隔
してこの病毒を他に傳へしめざるやう大に注意せざる可らず濱港の如きは則ち右遮斷離
隔の両法の充分往屆きたる一例と云ふべし此といふも詰まる處は學問の働きを實地に應用
して必至の災害を其未だ至らざるに防止したるものに外ならず人文進歩して智識の働きを
逞うすること實に偉大なりと申すべきなり聞く濱にて遮斷法巖施の砌り海岸通五丁目の
遮斷地を離れたる處に突然傳染症のコレラ患者一名を發見したるにぞ醫員諸氏は大に驚愕
し如何なれば斯る處に斯る患者を現出せしやと段々取調べ見たるに其患者は曩に他の石炭
擔ぎと與に海岸通五丁目廿番地に宿り居たる一人なるが同宿者の吐瀉に罹るを見て膽を潰
し直ちに同所を立去て遮斷地外に潜み居たりとの事實が分り乃ち此者も亦早々高島町の離
隔所に引移したりと云へり右の如きは實に危險の話しにして當時若し此一個の飛び火を看
落し眞症コレラ系統外の病なりとして深くその原因を探ぐらざりしこともあらば毒焔遂に
四方に延焼して遂に數萬の人を殺すに至りたるやも知る可らず我輩は此一事實を見ても今
回の豫防法の殘る隈なくこの手配りの屆きたるを悦び兼て又この毒を未だ廣がらざるに撲
滅するの必要なるを信して疑はざるなり幸ひ目下の處にては右の病毒も薄らぎ先つ安心な
りというと雖も明年なり又明後年なり何時何れの地にコレラ病の發生を見るなしとも期し
難し然る時には能く手後れなく手落ちなく充分の防止策を施行し斷して惡疫の蔓延を許す
可らざるなり夫れに付ては固より多分の費用と勞力とを要するならんなれ共去迚これを以
て恐怖すべきコレラ病の豫防を忽にすることは成り難し但し人間は誠に無勘辨なる動物に
して遠く慮り深く察し現在未來の事物を熟考比較しよく其判斷を爲し得るは極めて稀れな
り故に家を焼き財を失ひ一夜の烈風に全都を焦土と爲すの惜むべく又恐るべきを知れども
家屋を煉瓦石造にして火の未だ起らざるに先づ其延燒を防止するの利を知る者は甚だ少な
しコレラも亦火災の如し人皆死の恐るべきを知り病毒蔓延の有樣を見て恐怖狼狽すると知
れども當初先づ大に金と勞を抛ちてこれを未然に防止するの利を知り又其愚を感ずる極め
て少なきは普通の人情なり依て我輩は今日コレラ病鎭壓策の成功を喜ぶに際し他年コレラ
再襲の時に當りて今日の事を忘れざるやう豫め一言忠告し置くものなり（畢）