「明治廿三年の亞細亞博覧會」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「明治廿三年の亞細亞博覧會」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

明治廿三年の亞細亞博覧會

聞くが如くなれば我政府は亞細亞博覧會と稱するものを來る明治廿三年を以て東京に開く可しとなり抑も博覧會なるものは四方八方より新古珍奇の品物を集めて之を一棟の下に網羅し順序を立て部類を分ち衆人一過通覧の便に供するものなれば幾多參觀の人々は萬方の物産工藝を一目に領して彼此對視の其間に新智識を增すこと少なからず又其出品中の優等なるものには博覧會審査官の鑒定を以て特に金銀の賞牌等を贈り以て其功勞熟練を彰はすが故に工藝者の名利心を滿足して其發明工夫を未來に奨励することも亦少しとせざるなり今を去ること四五十年前文明の交通法未だ歐洲に遍ねからざる〓〓ては殊邦異域來往の便に乏しく工藝製造等に從事するものも他山の石を以て自から其技術を磨き以て完璧の製造品を得るの機會なかしりが故に工藝技術の改良進歩〓甚だ遅々たりしが蒸氣船車の用ますます廣まるに隨て物品運送の便ますます增し歐洲人をして始めて大に博覧會〓〓を利用せしむるに至りたり特に英國人は率先の任に當り千八百五十三年の萬國大博覧會には倫敦のハイド ハークに水晶宮(今の水晶宮則ちクリスタル パレスは右博覧會了りて後ハイド ハークより引き移したるものなり)を建築し海上より陸路より世界萬國の出品を蒐めて之を其中に陳列し世界萬國の參觀人を花の〓〓府に蜂集して未曾有の盛觀を極めた〓〓英國の工藝技術は此頃より數層の進歩を現はし歐洲一般の工藝も亦其面目を改めたりと云ふ近年に至ては博覧會の利益ますます顕はれ歐洲諸國年として其開會なきはなく手を換へ品を換へ萬國の新出品を蒐集して萬衆の觀覧に供するが故に漁業博覧會と云ひ衛生博覧會と云ひ又新發明品博覧會と云ひ其道に熱心注目するものは孰れも千里を遠しとせずして來り以て自から其見聞を利せんとするものゝ如し左れば明治廿三年の亞細亞博覧會に於ても歐米諸國の工藝家は先を爭ふて來覧すること恰かも彼の歐洲中の諸博覧會の如くなる可きやと云ふに我輩の豫想を以てそれは其間少しく趣を異にするものある可しと想はるゝなり今其故如何と云ふ〓明治廿三年の博覧會は亞細亞洲中の出品のみを〓〓するの趣向なるよしなれば歐米諸國の工藝家に對しては利害の關係自から薄く特に亞細亞の出品とあれば機械學の原則を利用したる器具甚だ少なく蒸氣電氣の働を假りて精工微妙を極めたる品物も亦少なく唯々風雅洒落にして天然自然に成りたるが如く學術外に甚だ不規則の味あるものか、或は奇古怪異にして山に千年川に千年の古色を帯び唯一ありて二なきものか、之を要するに彼の古器物とて何寺の寶物、何家の珍藏に係るもの其多きを占ることならん保養遊覧の眼を以て見れば出品の奇いよいよ奇にして見物の興いよいよ多く、十分好奇心を滿足するならんと雖ども歐米諸國の工藝家は文明の發明工夫に熱心し物の輕便にして用の廣大なるものを求め機械學の原則中より卓抜出群の専賣免許品を模索し出さんとするに汲々たるものなれば釋迦の鐵鉢、太公望の釣竿等奇にして效なく雅にして用なきものを見るも以て其心を動すに足らず故に數理學問上の利益を目的とするときは萬里亞細亞の博覧會を尋ぬるも得る所甚た少なきを遙察して敢て其來覧の先を爭ふものなかる可きなり左れば歐米諸國よりわざわざ亞細亞の博覧會に臨むものは兼ねて亞細亞の遊歴を企て東瀛の風物に飽かんとするものか、或は少しく商工の事に志す者なれば漫遊半分に亞細亞の物品を一覧し其古雅の部分を取て新物製造の參考に利用するの目的にして之を喩へば數千年の空藏に堆き雑物の中より偶然に掘出しものを求めんとするが如き旅客の種類なるべければ會塲の出品に就て日新の利益を得んとするよりも寧ろ保養遊覧のためにする者にこそあるべしと豫期せざるを得ず扨その來遊の目的が初めより保養遊覧に在りとすれば其人數も亦自から少なかるべしと思ふ者もあらんなれ共我輩の所見を以てすれば其邊には心配なき事と信するなり東洋流の考にては遠き歐米の國々より東洋の片隅の孤島まで博覧會見物などゝは思ひも寄らざるの次第なれども〓〓便〓遊興の快を追ひ然かも旅行に慣れたる外國人は兼ねて東洋の風物を尋ね林泉堂宇の勝を探り人情風俗の文野を察して友朋宴間の談柄に供するの意ある折柄、日本に亞細亞博覧會あり之れと同時に國會の開設ありて亞細亞人種中に立憲政体の先鞭を着くるなど毎報其好奇心を動かさゞるものなきに於ては國會に就き博覧會に就き日本人狂喜の状亦是れ一層の奇觀なれとて遊興勃々此を機會と東洋行を企て來遊の上は事々物々見聞に奔走して淹留歸るを怠るゝことならん此時に當て我々は如何に來遊の外國人を待遇して日本文明の實際を示し外國人をして日本の獨り東洋に卓出し鶏群の一鶴風骨自から凡ならざる所あるを知らしるむことを得べきか是れ我輩の豫め講す可き所なり(以下次號)