「明治廿三年の亞細亞博覽會」
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時事新報に掲載された「明治廿三年の亞細亞博覽會」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
國を文明の世の中に立て人の文野貧富強弱等を知らざるは固より患ふ可しと雖ども人の己
を知らざるは最も患ふ可き事なりとす一般に論ずれば日本人は能く西洋諸國の社會の實際
を知るものに非ず知らざるが故に之を畏敬すること時に或は其實に過ぐるの趣あれども西
洋人は日本を知らず知らざるが故に地理上の位地大小等より管見して安南暹羅の流亞なり
とし或は單に東夷中の錚々たる者なりと見做すのみにして决して待つに同等同數の禮を以
てするの意なきものゝ如し左れば歐米の展覽博覽會等にたまたま日本の出品あるを見れば
毎度其技術の精巧にして野蠻中の物に非ざるを賞し遊學書生が西洋高等の大學校に入りて
優等特別の卒業證を得れば大に其文思天才は秀逸なるを嘆ずれども之を賞し之を嘆ずるは
畢竟日本を知らざるが故のみ東洋の孤島名を知らず而して其出品如此きものあるか其書生
に斯かる秀才あるかとて餘りに卑下し過ぎたるを悔い餘りに豫想外なりしを驚くのみ實に
頼母しからぬ次第に非ずや事情右の如くなるが故に我輩は談、内外交際の事に及ぶ毎に日
本の國柄を世界に表白するの必要なるを陳述すれども左ればとて漫に虚名を售り日本の名
の其實よりも花々しく聞えんことを祈るものに非ず今の日本の有りの儘を有りの儘に知ら
しむれば我輩の本願達するものなり而して此本願を達せんとするには明治廿三年亞細亞博
覽會の好機會を空うす可らざるなり
明治廿三年の亞細亞博覽會には保養遊覽の外國人米國より太平洋を越えて歐洲より蘇西香
港を經て蜂屯蝶集花の東京に來ることならん此時に當て我々日本人は唯博覽會のみを博覽
會とせず日本全國を打開て之を一個の大博覽會塲と爲すの覺悟なかる可らず就ては豫め其
用意を爲し地方の諸官廳にも夫れ夫れ沙汰して豪遊外國人の到るべき塲所柄は旅宿も相應
に整頓して仮令へ其家族は日本風にても日本固有の清淨潔白と眠食の安樂とを糧とし當座
宿泊小休の間を缺かぬやう其準備肝要なるべし又今日の實際に於て都鄙の者共が外國人と
見れば奇貨若く可しとて賣るものは法外に高く取るものは非常に多く所謂客の足元を見て
その〓を二三にする者あるやの噂も少なからず世界萬國に免かれ難き通弊とは申しながら
斯くては折角來遊の外國人も安心して長く逗留すべき譯にあらされば各地來往の外客のた
めには成るべき丈けの便利を與へて其自國に居る時と同樣の心地にてあらしむること最も
必要の注意ならん汽船汽車の賃錢等は初めより一定し居るが故に是れは例外の事として扨
て各地方の馬車人力車等は其地方掛官に於て豫め其地勢の險易を測り一里の賃錢を何錢と
定めて乗車切符を發行し其切符さへ持參すれば南船北馬何の苦もなく旅行するを得る等の
工夫は新來遊の外國人に取りて幾多の便利を感することなる可し又特に來遊外國人を滿足
せしむるには明治廿三年の一年間日本全國にて自由勝手に遊獵漁獲することをも許して可
ならん盖し禽獸魚鼈の類は日本に限りて殊に多きに非ず亞非利加の内地、南亞米利加の山
林こそ世界第一魚獵の奇獲あるべけれども山深くして人烟少く谷靜にして畫猶ほ暗く久し
く其地に留まらんと欲するも眠食の不自由に妨けらるゝを如何せん然るに日本は之れに反
し村溪行き盡くして忽ち村あり茶菓買ふて以て渇を醫す可し、村盡て林あり射獵試むべし
其秋風黄落の節には「枯枝に鴉のとまりけり秋の暮」の趣を存し木葉脱して禽鳥現はれ郊
外の遊獵倦むことを知らず日の西山に舂て暮鴉の林に歸るを忘るゝことならん斯くて歸路
には直に車を命し又一種の駕籠に乗り腰間のブランヂーに微醺を買ふて吟嘯して旅店に歸
ることを得べし日本内地の遊向んぞ其樂しきや天然の勝景と人事の便利と併せ得て里に撃
つ碪の聲を聞きながら深山幽谷の豪遊を恣にすべきの絶妙は世界萬國に比類なき者ならん
右の次第にて來遊の外國人は五月三月樂んで日本に淹留する其間に気候は清朗にして寒〓
宜を得、林泉堂宇の〓到る處眼を〓ましめ、人民は快活にして能く客を〓し、文采風流の
中に気骨を存して文明進歩の思想に富み、政治法律語る可く文雅風流談ず可し品物安直に
して生計の苦なく悠々樂んで以て歳を卒ふ可し云々とて物數奇にして貧乏知らずの外國人
は一念發起菟裘を日本に營まんとする等の奇談を生ずるやも知る可らず斯くて亞細亞博覽
會も了り來遊の外國人も夫れ夫れ帰國する時分には亞細亞博覽會の記事、日本内地の景状
等陸續として歐米の新聞紙上に現出し歸國の人々は茶席宴會に日本の快遊を誇り其一両月
間は歐米貴士女の間に於て日本國及び日本人と云へること所謂流行談題(Current topic)と
爲ることならん我々の一大名譽なりと申す可きなり左れば亞細亞博覽會は日本に取りて容
易なることに非ず近來世上に漠然たる風説あり當局者は此博覽會の費用を五百萬圓に見積
らんか或は半減して二百五十萬圓の小規摸に從はんかとて意匠慘澹經營の最中なりなど噂
すれども試に前途の盛事を心に畫かんには縱ひ水晶宮を建築して花の東京を飾らんとする
程の大膽なきも土階三等の古風を學んで日本國に不釣合の博覽會塲を建築せんとする鄙吝
心は忽ち消散することならん明治廿三年の亞細亞博覽會は我々日本人が日本全國を打開い
て世界の人を歡待し我實情を有のまゝに示すの時なり今よりよく注意して其準備に手落な
からん事を希望するなり(畢)