「食物の改良」
このページについて
時事新報に掲載された「食物の改良」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
食物の改良
近來日本の衣服家屋を改良するの説諸方に起り又其實行をも見受け候は山人の喜び此事に候依て茲に序ながら今一つ煩はしきは衣食住三事の眞中に一ツ取殘されたる食物改良の事に候抑も我國の食物は米と魚類を土臺としてこれに伴ふにもろもろの不消化物不滋養物を以てし人間の身體を養ふ第一の必要品と認められたる鳥獸肉の如きは神道佛教の妄誕に迷はされて穢らはしとか罪障に爲るとか言傳へこれを食ふ者極めて稀なり先祖代々の習慣遂に性と成し滋養の不足よりして身體の發達を妨げ日本人と云へば男女老若を論せず必ず色青く又黒くして皮膚の光澤なく身の長低く骨格小さく肉痩せて筋引釣り力量弱はく氣力少なく所謂累々としての喪家の狗の如きもの皆是れなり身體既に不具なれば其精身も亦固より虚弱なるべき道理にして日本人の〓〓の粗暴なるは毎々人をして吃驚仰天せしむるなり試に少し責任の重き仕事を宛行ひ見るべし半年も立つか立たぬに早くも業病を引起こし精神疲勞錯亂して物の用も立たず或は肺病に罹らざる者あれば咳嗽吐血を始めて温泉も海水浴も其効なく空しく他界の人と爲る者此々皆餘り實に哀れといふもおろかなり斯る事の次第にては其機會へ首尾よく衣服家屋の改良と了り家はゴシツク風の三階煉瓦家、服は幅廣羅紗のヅボン マンテル、二疋立のアラビヤ馬に金紋付きの馬車を挽かせたりとするも大事の御主人が清躯骨立顏面蒼々たる片輪者にては何の用とも爲すべからず骸骨に着物着せたりとて富國文明に相應の補あるべき道理なければなり左すれば衣服家屋の改良を急ぐも去る事ながら人間生々の本源たる食物の改良を急にするも亦甚だ大切の事ならん身體先づ虚弱にして精神虚弱と爲り精神身體共に虚弱にして人間復た一人前の人間たるを得ず一人前の人間たるを得ざる心身を所持して厚顏しくも今の浪風〓も多〓の中に立ち一家一國の獨立幸福を守らんとするは了見違ひの最も甚だしきものと云はざるを得ず實に食物の改良は一身の爲めにも一國の爲めにも甚だ大切なる事と存候
近來東京市中にては社會改良の氣運に連て人の嗜好漸く肉食に傾き需要の在る所供給來るの理に漏れず新たに西洋料理屋を開店する者先を競ひて各所に起り新聞紙上日として「西洋料理開店」の廣告を見ざるはなし是即ち衣服家屋の改良に連れて食物の改良も亦既に其緒を開きたるの證にして社會の爲め慶賀此上あるべからず殊に喜ぶべきは從前肉食者の稀なりし時節と違ひ當時の如く斯く需用供給のともに増加するに從て肉食の費用大に減少し從前西洋料理と云へば甚だ奢に屬したるもの今は却て日本料理よりも儉約なりといふまでに至りこれを得ることの容易なる一事なり費用減少すれば隨て需用の増加すべきは自然の道理にして月に日に肉食の區域を廣くして遂に日本食物改良の功を成就すべきは山人の信じて疑はざる所なり時勢すでに斯の如し然るに顧みて彼の會席などゝ唱ふる從來の日本料理店を見るに依然として「米の飯に肴そへて」の主義を固守し魚の刺身、魚の塩燒、魚の蒲鉾、魚の吸物等にて客の腹を膨くらし滋養の食物とあれば一切差上げ申さずと定め居るは誠に以て歎はしき次第なり斯る有樣にては食物改良を必要とするの今日西洋料理と日本料理との優勝劣敗の作用を一層激烈に魚菜主義の日本料理は必ず速かに滅亡するに相違なからん左りとては甚だ氣の毒千番の事ならずや依て山人は日本料理屋に忠告を今より俄かに商賣替して西洋料理を開店するには及ばざれどもせめては從來の調理法を改革して大に滋養品を擇び牛、羊、豚、兔、猪、鹿又は雉子、鳩、雁、鴨、鷸、鷄、鵞鳥七面鳥などの鳥獸の肉を混用することゝ爲さば今の時勢に後れずして漸く進化改良するの望もあらんか否らざれば折角の日本料理も陸の駕籠屋海の親船持と必ず其運命を同うするの日あらんと存候早々頓首
十八年十月廿二日 東京神田 駿臺山人
時事新報記者御中