「貧乏人の苦情」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「貧乏人の苦情」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

貧乏人の苦情

拜啓仕候私義は東京神田區或る町の裏長屋に住居仕る貧困の一職人に御座候が唯今こそ斯く貧困に罷在を親父の代までは相應に暮らしたる町家に成人仕候甲斐ありて新聞紙なども餘り六ケ敷陳奮漢語でさへなくば先づ一ト通りは讀め申候然るに新聞の社説論説など申す所を拜見するに國權民權治外法權などゝ何か喧ましき理屈のみ多く甚だ以て感服仕らず實を申せば私共の仲間にては三度食事の準備四時寒暑の防禦に忙はしく迚もゆるゆる國權民權などを味ふの暇無御座候斯く申せばとて強ち新聞紙の惡口を申す譯には無之唯私共は今少々手近き所の御議論を拜聽仕り度國權民權の御議論も結構は至極結構なれども何分廻り遠くして私共には差當り利害無之ものさへ斯く申候次第に御座候其手近き所と申すも色々有之候へども先づ第一番に私共の居住する長屋の事を擧て貧乏人の苦情を申述べんに此地面は本町福徳屋某の所有にて大屋欲兵衞殿が此地面を借地して今の貸長屋を建てたるものとの事に御座候

私共は自分の地面とては一寸もなく皆夫れ夫れ民有官有共有場にて已に此世界は悉皆他人のものと御成居候さへ傳る所私共は他人の所に居候又食客に罷出でたるに同樣の姿に有之候金滿家が此の廣き世界の土地を占有して私如き貧乏人が之を所有することの出來さるは致方もなき次第なれども私共の貧乏なるは私一人の罪でもなく金滿家の富裕なるは金滿家自身の手柄でもあるまじ私共は朝の七時から夕方の六時迄汗水を流して働き金持の旦那方は朝から晩までねんねこ袢天にくるまつて氣樂に日を消し夫れで以て私共は金がなく檀那方には金が澤山あるとは誠に以て理屈の知れざる譯合なり働らけば儲かり働らかざれば窮すると申す事は萬々承知なれども其反對の事が此世にあるとは誠に以て奇怪千萬と存じ候尤も檀那方の御先祖が働て多くの金を儲け私共の親が懶惰に此世を過去りたるが故に因果應報其子孫たる檀那方が氣樂に暮らし私共が困窮すると云へば何だか理屈らしく聞ゆれども能く能く深く其理屈を吟味すれば其理屈らしく聞へたるは却て不理屈の樣に聞へ無候抑も親の因果が子に報ふと申すは親の惡疾が子に遺傳するやうの事をこそ申せ親が金持ちゆゑ子も金持、親が船將ゆゑ子も船將に爲らねばならぬなどいふ譯にはあらず

親は何故に金を儲けたるやと問はんに定めて其人の智徳他に勝れ大に働きのありしゆゑならん

然るに其親の死去したる時に大事な智徳も働きもこれを子孫に讓るの工風なく空しく生命と共に消滅したりとせんには獨りこの智徳竝びに働きより算出したる財産に限りてこれを子孫に讓り得べき道理なきが如し左すれば詰り人間社會の仕組が間違ているから斯く色々不都合の生ずる事と存じ候何でも人間社會の有樣を其根本から洗い浚ひきつぱり革めなければ迚も此儘に永續するとも思はれずされば檀那方の有金から家庫迄そつくり之を取り上げて之を國中の貧富平等に分配すれば夫れにて私共の苦情もなくなる如くなれ共夫では迚も檀那方が御承知なさるゝ筈もなく私共も何だか檀那方のものを掠奪する樣にて心持も能くなき譯なりさればそこには何とか法律又は規則を作り成る丈け一箇處に金を集めず常に融通して貧富廻はり持ち貧も富も一代限り功罪共に子孫に及ばぬ事に致し度もなり併しこれも追々の事として急に實施なり難しと云はゞせめては今の地代店賃の法にても何とか改正を加へ度ものなり

抑も借地して家作を建つるの不便經濟なるは讀者方も必ず御承知の事なるべく漸く家作も出來して小庭の一つも出來上りたる其時に地主の都合にて今迄一坪五錢の約束で借りたるものを六錢又七錢に値上げさるゝも急に其家作を取毀つことも出來ず他人に賣渡さんとするも買人なく不得止地主の命令に隨て其地代を拂はざるを得ず如何にも難澁至極の譯合なりそこで何とか規則を定め勝手我慢に地代を上ぐることはならぬとか又は地主に於て地代を上げんとする時は區役所等に出でゝ其地代直上げの理由を述べ其許可を得ざるべからずとか一体の法律を設けたきものなり

次に至急を要するは貸長屋の規則を定むることなり新聞を讀む人又書く人抔は東京市中裏店の實況を知るものなかるべしと雖も私共相長屋などの例を申せば其一軒とは間口一間奧行三間都合三坪上り口勝手元兼帶の板間を二疊取れば差引殘て四疊の一間あり此一間の内に夫婦と子供三人都合五人の家内が起居眠食するとなればその混雜推して知るべし尤も唯混雜のみなれば隨分我慢も出來るべけれども深更忽ち暴雨來て夜具を片付け疊を取り上げ明燈に傘をさゝせる事などは屡々なり其他どぶ板の不始末なる共同雪隱の不潔なる實以て言語道斷の次第なり

夫れで以つて一箇月の家賃一圓から一圓五十錢にして大屋殿も家賃の催促は誠に嚴重なれども屋根の修繕と雪隱の掃除は幾度之を歎願するも嘗て聞屆けられたることなし

如何に金の威光とは云ふものゝ餘りと云へば不都合なる仕方なり所で此類の貸長屋にも何とか相應の取締を儲け先づ貸長屋を建てんとするものは其場所間取又家賃等を精細に認めて之を區役所等に出し其許可を得て後ち貸長屋の商賣をなす樣の仕組に數度存し銭其他色々の苦情は澤山有之候へども先今日はこれ既に致置其内職業の餘暇を見合して種々可申上此邊の手近き事情に付き何卒諸先生の御議論を承り度先は右

苦情迄匆々頓首

  明治十八年十一月     東京神田の一貧人

      時事新報社御中