「品行論」
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時事新報に掲載されたを文字に起こしたものです。
時事新報に掲載された「品行論」(18851120)の書籍化である『品行論』を文字に起こしたものです。
本文
品行論緒言
日本男子の品行に就ては我社會のため又外國交際のためを謀りて不滿足なるもの甚た少なからず我輩同志者と共に常に憂慮する所なりと雖ども抑も今の世界文明の程度に於て此一件に就き人の本心の非を正さんとするが如きは企て及ぶべきにあらざれば唯不品行の醜を醜として之を祕密にせんこと第二の冀望なれども是れさへ注意する者なくして漫然たる者多きは實に慨歎に堪へず東洋西洋男子の品行を尋ねて其内實の正味を吟味したらば或は難兄難弟の事實を發明することもあらん彼の道徳の士の常に憂る所なれども事都て祕密にして尚ほ恕す可きものあり然るに獨り我日本國に於ては數百千年來の習慣その内實を外に現はし恬として平氣なるが如きは益赤面の次第なり思ふに世上我輩と同感の士も必ず多からんと雖ども元と此事たるや之を言ふに愉快ならず心竊に感慨を催ふしながらも先づ發言を見合せたる事ならん我輩とても同樣にして生涯無言に附して穩便ならんことこそ願へども左りとては又際限あるべからず殊に近來は世界交通の道至便至迅にし何時しか我内情が外人の耳目に觸れて如何なる攻撃を蒙るやも圖るべからざれば未だ其論鋒に當らざるに先だち我れより自から注意して日本人中亦品行の得失を論じたる者ありて男子社會の面目漸く改まりたりと云へば自から以て他の侮を禦ぐの一助ともなるべしと思ひ數日の筆を勞して匆々一編を綴りこれを本年十一月二十日より十二月一日までの時事新報に記載して世人の注意を促したり盖し今日の日本人は日本限りの日本人にあらず一言一行一擧一動全世界に對して其責に任ぜざる可らず全國無數の男子能く其責に任じて愧る所有るや無きや明治十八年十二月東京日本橋南時事新報社樓上に於て時事新報記者記す
品行論
福澤 諭吉 立案
中上川 彦次郎 筆記
國とは人の集りたる一體の名なり故に國の貧富強弱とは其國民の貧富強弱にして貧弱の人の集る處これを貧弱國と云ひ富強の人の集る處これを富強國と云ふ貧弱富強、人に由りて國の名を成すとあれば智愚徳不徳も亦同樣にして智國あり愚國あり徳國あり不徳國あり何れも皆その國人の言論擧動如何に由りて國の輕重を爲すものなり、むかし鎖國の時代に在ては國の貧富強弱智愚徳不徳も一國の内に限り人々内に相互に比較して品評を下したるまでに止まり其集まりて一國一體の輕重を成すに至ては其輕重を以て外に相對するものなきが故に輕重あるも輕重を知るに由なく獨り自から評して自から輕重したることなりしかども今や國を開て文明諸國の人と親しく交を接するからには恰も我國の輕重を提出して世界普通の天秤に掛けたる姿なれば厘毛の差も分明にして之を掩ふべからず殊に鎖國の舊物を披露して之を世界の大勢文明の光に照らし見れば我富強必ずしも富強ならず我智徳必ずしも智徳ならずして時としては古來不智不徳としたることが却て智徳の名を博するものなきにあらず左れば一個人の重きを集めて一國の重きを成し世界の品評に附して愧ることなからんとするには先づ我耳目の區域を廣くし文明世界の貧富強弱とは如何なるものぞ、其智愚徳不徳とは如何なるものぞと之を知り盡して自から銘々の覺悟もあるべし學者の當さに講ずべき所のものにして其目甚だ多ければ今その一小部にして最も手近き人の品行の事に付て聊か所見を陳んとす之を題して品行論と名く
前に陳べたる如く國の輕重はその國人の輕重に在て存すること誠に明白なる道理にして而して今、人の世に重んぜらるゝは何事に原因するものなるやと尋るに一身の外行内行を脩め一擧一動細々積で事實に現はれたる成跡より外ならず之を喩へば時計の面に秒時を積で分時となり、分時を重ねて時となるが如し細行集まりて一身の重きを成すの状以て見るべし扨その外行とは洋語にパブリツク、モラルチと云ひ專ら人間社會の交際に關する所にして例へば報國盡忠と云ひ政治の思想と云ひ民利國益の働と云ふが如く一身一家を離れたる其外の利害を心配するものなり國のために死し、人のために勞苦し、公共のために身を苦しめ世民の苦樂を喜憂するなど云ふは即ち外行を脩るものなり、次ぎに内行とは專ら一身の私に係る行にして之をプライウエート、モラルチと云ふ例へば夫婦親子の間柄、一身の起居眠食逸樂の事等全く社會公共に縁なき私の働にして内に屬するが故に之を内行と名くるものなり今本編の旨とする所は專らこの内行に就て言を立るものなるが故に古來今に至るまで日本國人の内行は如何なる有樣にてありしや今日は如何なる有樣なるや其内行の當局者にあらざるも他の内行を見て之を評論するに何を以て標準に定めたるや又今日は如何に之を定むるや之を吟味すること第一の要用にして之に由りて我人民即ち我國が世界に對するの輕重も自から明なるものあるべし
我日本の古代も世界各國野蠻の由來歴史に洩れず專ら武を尚ぶの風にして心身優等の者は唯戰鬪を事として家に居ることさへ稀なれば固より内行を顧るに遑あらず父不父、子不子、夫不夫、婦不婦、山川を跋渉して時に飢渇に苦しむことあれば戰勝の興に乘じて放食鯨飮啻に遠征の天に花柳の枝を折るのみならず人の子女を強ひて春を促がし、敵の妻を取て妾と爲すが如き甚だ亂暴なる始末は足利時代戰國の史類を見ても之を知るべし今日に於ても船頭、航海者、旅行商人、軍人等の如き其職業柄に由て家を家とすること能はざる者は内行を愼しむの念も自から薄くして時として酒色の慾を絶つの其代りに時として又大に之を恣にすることあり盖し其生活常ならずして危きを冒し、事の極度は死生さへ定め難き職業なるが故に其苦痛の償として機に投ずれば快樂を逞しうする者にして其趣は戰國の武士に彷彿たるものと云ふも可なり一概に其人を咎む可らず畢竟其人の職業に從て然る者なれば大に恕する所のものなかる可らざるなり且又戰國武士の亂暴右の如く實に亂暴なりと雖ども此武士に徳心なきに非ず、一諾山よりも重く、一身塵よりも輕し、其義を重んじて死を輕んずるの士氣は後世の人をして感服せしむるもの甚だ多しと雖ども如何せん其人の心事唯武略戰鬪の一方に偏して内行の重き由縁を知らず、其重きを知らざれば之を犯すも自から愧ることなく公然平氣にして得々たりし者のみ之を聞く豐臣秀吉が大坂城に西班牙の天主教師を召して其教旨を聽き一も怪しむことなくして之を悦びたれども唯天主教中、一夫一妻の誡は吾れ之を守ること能はずとて公然憚る所もなく不服を述べたりと云ふも豐公の心事の淡泊磊落にして都て當時の武將が内行の重きを知らず之を物のかずともせずして平氣なりし一證として見るべし戰國の世に内行を輕んずるの氣風は時勢に止むを得ざるものなれば之を怪しむに足らざるなり然ば則ち古今我國民全般の風俗を察して其内行如何を視るときはむかしの武士の遺風に依るものと判斷して可ならん如何となれば日本は尚武の國と自稱するほどの國にして社會の權力は武人に歸し武人の言行は他の模範ともなりしことなれば善となく惡となく皆之に靡いて風俗を成したるものなればなり足利の末世より織田豐臣を經て徳川に至り多年の騷亂も治まりて無事太平の天下と爲り整然たる封建世祿の制度を定めてより曩の武將武士は遠征戰鬪の事を止め其擧動の最も活溌なりし者が最も不自由なる身分となり前年は櫛風沐雨、終歳家に居ることゝては幾日を計へず、家郷に遠征を思ふ者あるも身は戰勝の敵地に秋月を咏じて杯を傾くるなど磊落至極なりし境界も今は變じて封建の居城門閥の邸宅に住居することゝなり衣冠正しく政堂に坐して常の事務を執り以前の殺伐に易るに文飾を以てして公用に非ざれば外出さへ意の如くならず其趣は野獸を捕へて檻に入れたるものゝ如く窮窟も亦甚だし即ち是れ徳川政府が封建の將士を御するの法にして其旨は外面の禮式を以て武人の粗暴を制するに在り儒者の語を借用すれば禮を以て天下を治るものならん其政略の得失は兎も角も武人等は此禮式の生活に馴致せられて一代を終り二代を經て其外部丈けは頗る柔順にして文雅なる者には變性したれども父祖以來に傳へ遺したる活溌磊落の氣質は之を脱すべからず此氣質を養ふに門閥の富を以てして錢の不自由あらざれば活溌磊落は變じて勝手我儘と爲り之を禁ずること甚だ易からず戸外の交際は禮儀のために都て窮窟にして樂しからざれば内の我儘を以て無上の愉快と爲しおのおの一小天地に閉居して肉體の快樂を恣にするは大小の差こそあれ上は將軍家より下は大名籏本諸藩中の大臣に至るまで封建門閥家に普通にして其樂事の一二を擧れば庭園泉水を作り、珍禽奇花を買ひ、能樂、茶の湯、歌舞、管絃、邸内の乘馬邸内の鷹狩等都て之を内にして外に出ることなく就中女色の如きは最も大切なる箇條にして千金姿色を買ふて愛しむ所なし一貴族にして數十名の妾を畜ひ隨て又數十の子を生み或は同月同日同時に一腹雙子ならで二腹二兒を産して其兄弟姉妹を分つに苦しむが如き奇觀なきに非ず徳川將軍家齊公は男女五十一人を生み家慶公は廿七人を生み其他諸藩主にても三四十の子を擧る者は誠に珍らしからず其内行の紊亂推して知るべし其家を一見して假令へ父父たり、子子たりの教は明なるも、夫夫たり、婦婦たりの條理は不分明なりと云はざるを得ず畢竟ずるにむかし心身の自由活溌にして内行の何ものたるを知らず豪氣無頓着を以て平氣なりし武人の一族が太平の後に至りてもその舊習遺傳を脱すること能はず外部をば上品に文飾すれども内行を輕んずるの實は戰國の時代に稍や相似たるものと云ふべし
右の次第なれば封建門閥の武家は内行の何ものたるを瓣へずして都て粗暴無状なりしやと云ふに決して然らず徳川の治世元和偃武の頃より儒者の教漸く明にして殊に全國の武家は大抵皆この儒教に養育せられて仁義禮智の道、孝悌忠信の教、之を遵奉せざるはなし父母に孝にして長上に事へよと云ふが如きは朝夕儒門の教育にして人生の外行内行の區別なく身を正うして物に接し都て誠意誠心なる可きを以て根本に立るが故に或は内行の方に却て重きを加へて專ら獨を愼しむの一義を唱へたるが如きは全く太平治世の然らしむる所にして其文物の整然たるは戰國のむかしに異なりと雖ども爰に不幸なるは彼の儒教なるものゝ性質を尋るに專ら子弟小弱の者の心得を記したるものにして長上強大を警しむるは甚だ粗なり、子に孝行を教へて父母の義務を説かず、少者に枝を折るの勞を命じて長者にその返報を求めず、少年子弟は常に叱咤せられて長老父兄は甞て咎めらるゝことなきの大主義にして其主義の達して男女の關係に現はれたる所を視るも亦同じ男子は強大にして女子は弱小なるが故に督責の鋒は常に女子の方に向ひ之に柔順を教へ之に謹愼を命じ交際を禁じ、多言を禁じ、甚だしきは其無學不才にして心事の卑屈なるを悦び之を目して女の淑徳などゝ稱贊して遂にその大切なる教育の方便をも奪ひ去るにまで立至り却て男子の社會を視れば自由安樂、女子に對して毛頭の義務を負はず、強ひてその義務の在る所を求れば女子の生命を保存して之に衣食を給するまでに止まり、之を愛するや玩弄の品として愛するのみ之を親しむや身の邊に近きが故に親しむのみにして其交際上甞て一點の敬意を見ず以て社會一般に男尊女卑の風俗を成したるが故に貴族門閥の輩が男女の關係に付き何ほどに其慾を恣にして何ほどに亂暴無状なるも一般の世教風俗に於て之を男子の不徳として咎る者なし、たまたま咎る者あるも人類と人類との關係を根本として論ずるには非ずして唯器物の用法如何に就ての評論を下だすのみ某氏は一旦の怒に乘じて内室を放逐したりと云ふ妙齡の美婦惜しむべし他日必ず後悔するならん、何君は馬を賣て妾に易へたりと云ふ馬と妾と孰れか快樂多からんと云ふが如き其語氣を窺ふても女子を輕蔑し之を同等の人類として視ざるの情は明に知るべし左れば徳川の時代封建の治世に社會の文物は漸く明にして人の内行の教も漸く嚴重なるに似たれども内行中の最も大切なる男女の關係に於ては毫もこの教の働を見ず堂々たる貴族士君子にして不品行を犯して自から愧るを知らず人も亦咎めざるは之を儒教主義の罪と云はざるを得ず、儒書萬卷その教ふる所到らざるはなしと雖ども一夫一婦男女同數同權の道理に至りては甞て一言の之に論及したるを聞かず却つて男尊女卑の談は常に喧しくして既に尊卑を分つときは尊者が卑者を噐として之を玩弄するは當然の事にして男子の品行脩らんと欲するも得べからず故に我輩の所見に於て今の日本男子の品行を正さんとするには戰國武士の遺臭なる磊落無頓着の氣風を制して兼て儒教主義の缺典を明にするに非ざれば叶はざる事と信ずる者なり
我日本男子の品行を正さんとするには戰國武士の遺臭なる磊落無頓着の氣風を制し兼て又儒教主義の缺典を明にすること緊要なりとは前節に之を發言したる所にして我輩の所見を以てすれば今の男子の品行に就ては聊か不平なきを得ず其紊亂を撥して正に反らしめんと欲するは至極の願なれども凡そ事を論ずるは易くして之を實地に行はれしむるは甚だ難し即ち世の中の常にして其行はれざるを知りながら酷に論じて直に人に迫るは趁跛に迫りて走るを促がすに異ならず啻に無益なるのみならず其促がさるゝがために却て落膽して尋常の歩行をも思止る者なきを期す可らず即ち趁跛をして自暴自棄の境界に陷らしむるものなれば我輩の取らざる所なり左れば方今、日本男子の品行如何を吟味したらば先づ以て趁跛の方多數なるべしと云はざるを得ず故に我輩は此流の人に向て直に反正を求る者にあらず既往の事は暫くこれを恕して今後の所望を申せば後進生が先進故老の不品行に倣はざる事と又假令へ自から制すること能はずして不品行を犯すも之を人生内行の最も大切なる事柄として極めて祕密にして醜聲を放たざる事と又從來世の中の醜と心付かざる所に注意して之を遠ざくる事と以上三箇條なりこの箇條の中に不品行を犯すも之を祕密にして隱すべしとは所謂因循姑息の談にして正義論者の意に適せず本來人の不品行を正さんとならば根本より之を正すべし、道二つ正と不正とのみ苟も萬物の靈として人倫の範圍中に在る者ならば斷じて醜行を許す可らず内外表裏一切これを容るゝの理なしとて正々堂々の議論を張る者もあらん我輩とても固より同主義にして其論鋒に對しては一言の非を呈すること能はずと雖ども抑も開闢以來今に至るまで人情自然の働と教育人爲の力とを視察するに此人類をして完全無缺の品行を保たしめんとするは極めて難きことにして心身遲鈍虚弱なるがために不品行を犯すこと能はず又これを犯すの要なき者か、然らざれば心身活溌強壯にして之を犯すの法を知りながらも之を敢へてせざるの勇氣ある者を除くの外は今日如何なる議論を以て之を責るも彼の趁跛に疾行を命ずると一般誠に無益の催促なるべし然り而して滔々たる天下には心身の極めて弱き者も少なく又非常に豪勇なる者も稀にして云はゞ趁跛千人又千人の世の中に古來その趁跛の不具なる所以を明にして之を誡しむるの教さへなき次第なれば我輩は最初より此趁跛に向て多を求めず先づ以て人間社會の外面體裁のために不品行の痕跡を隱して表を裝ふ、これを第一段として第二段は其これを隱すの虚策より遂に或は實を生じて實に品行の正に反ることもあらんかと漫に空想を設けて數十百年の後に好結果を待つのみ今日の人間の有樣にて色慾は其生活中の大慾にして之を制すること甚だ易からず其急なるに當りては財産を擲ち甚だしきは生命をも顧みざる程のものにして其事たるや私中の私、人に語るべからず人に問ふ可らず、無限の苦樂を一身に感じて之を表面に現さず、身中身外千百の状況に從ひ其苦樂を千百樣に輕重するの事實あるにも拘はらず其事實は他人の得て知る可きものに非れば傍より之を評論するには大に恕する所のものなかる可らず故に我輩の目的は直に其人の私に就き個々に論じて個々に正さんとするにあらず況して冷淡無味なる君子の教を標準にして人の私を摘發せんなどは最も惡む所にして唯一片の所望は社會の體裁のため人間の禮儀のために人々自から注意して祕密の淵を深くするの一點に在るのみ文明開化次第に進歩すれば人生の内行も次第に脩まりて正潔清淨なる君子社會を出現し一夫一婦配偶の分を守りて紊るゝなきの美を見るべしとは時として人の言に聞く所なれども今の事物の進歩を目して之を文明開化と名くることなれば我輩は到底此清淨社會に逢ふの目的なき者なりと云はざるを得ず試に日本と西洋とを比較すれば西洋諸國の文明は我れよりも幾段を進みたるものなれども人の品行上に就き其私中の私を發し其祕密の淵に潛りて明察を下だしたらば文明の人必ずしも其文明の割合に清淨ならざるの内實を發明することもあるべし唯其淵の水深くして之を窺ひ見ることの難きのみ左れば今の文明なるものは恰も人の品行の性質を化學上に清淨にするの力はなくして唯器學上に深く藏めて世の耳目を遮るの働を呈するのみ即ち事柄の性質を變ずるには非ずして其性質のまゝに之を掩ふて臭氣を放たざるのみ甚だ頼母しからぬ次第にして或は憤る者もあらんなれども然りと雖ども今の全世界は西洋の文明開化を以て支配せられて苟も此流に外るゝ者は人も人と齒するを得ず、國も國と伍を爲すを許されず俗に所謂多勢に無勢にして之に勝つ可きにもあらざれば都て其流に從ふて其風に傚はざるを得ず故に品行の一條に付ても歐米諸國人が眞に其奉ずる所の教義に從ひ一夫一婦の旨を守りて清淨ならば其風に傚ふ可きは無論なれども或は然らずして彼等の多數は内行に瑕瑾あらざるはなし唯その瑕瑾を祕して深く隱すに巧なるのみと聞ても尚ほ其これを隱すの風に傚ふこそ智者の事なれ、如何となれば吾々日本人も亦今の文明開化の中に居り其開明の色に化して以て自國の體面を維持せんと欲する者なればなり況んや之を隱すと隱さゞると其醜美天淵の相違あるに於てをや隱さゞる可らざるなり尋常一樣の事なれば過て改むるに憚る勿れとて身に過失あらば之を人に隱さずして明白に披露するを以て徳行の一班と爲すことなれども品行の一條は少しく之と趣を異にし假令へ之を改むるにも又改むること能はざるにも只管隱すの一義を忘る可らず人と禽獸との區別その間髮を容れざるの處に在て存す、盖し我輩が止むを得ず祕密の窮策に出たるもこれがためのみ正義論者乞ふ之を諒察せよ
百千年に由來したる習慣は容易に脱す可らず全國民に浸染したる世教は俄に其非を悟る者少なし我日本の開國に次で王政維新は古來未曾有の大變動にして啻に政治を改めたるのみならず故治に縁なき民俗教育殖産の事より衣食住の些末に至るまでも舊きを棄てゝ新らしきに就き恰も新日本國を創造したるものゝ如くにして他國の人が之を見て驚くのみならず自國人も如何して斯の如くなりしやと自から怪しむほどの今日に至り復た舊物の見る可きものなきに似たれども眼を轉じて道徳の境界に入り人の内行如何の一點を視察して殊に其男女の事に關する男子の品行を吟味すれば何ぞ料らん今日は尚ほ是れ開國以前の日本にして更に昔年の顏色を改めざるの實を發見したり然かのみならずむかしは封建門閥に伴ふに何か窮窟なる禮儀を以てして上流の武家又は民間の大家に不品行の醜あるも其醜は内に封鎖せられて聲を放つことを得ざるの事情もありしかども今や門閥を廢すると同時に其窮窟なる禮儀の束縛も亦共に廢して品行の自由自在なること轡なき馬を春の野に放ちたるものに異ならず花に勇み、柳に戲れ、嫩葉の軟らかなるものに逢へば口を接し、枯草の厭ふべきものあれば之を蹶散らし其活溌磊落にして無頓着なること青天白日十目の視る所にして一擧一動世間に明ならざるはなし而して其馬は如何なる馬ぞと尋るに數百年前の戰國より由來して徳川治世の間も品行の事には甞て頓着することなく其邊の教誡さへ受けたることなき者の末流にして今日の文明に會しても祖先遺傳の餘臭を脱すること能はず口に文明の食を食ひ、身に文明の服を服し、言行一切文明を以て根本を成すに似たりと雖ども獨り品行の一件に至りて舊日本の舊態を保存する其有樣は外國に久しく寄留して外國の語を學び日本語は殆ど忘れたるが如き語學者が其寢言には則ち日本語を語る者に異ならず百千年來に遺傳して記憶に染み込みたる言語は之を忘るゝが如くなるも夢中には自から制すること能はずして自發するものならん左れば今の日本の文明男子が獨り品行の一件に至りて舊態を存するも此一件にのみ夢中にして今日尚ほ未だ磊落無頓着の眠を醒ますこと能はざる者と判斷せざるを得ざるなり試に今の大人士君子と稱して世に景慕せらるゝ人物の或る部分に行はるゝ婚姻法を見よ父母に告げて娶るは愚なり、曾て父母より授けられたる細君に伴ふは無理なりとて身躬から奔走して嬋娟の春色を探る者あり、又自家の晩春に緑葉陰を成し子の枝に滿たるを厭ふて之を棄る者あり、如何にも男子は獨立の男子なり、己れの生涯の配偶を擇ぶに父母に問ふの道理はなかるべし我輩これを咎めずと雖ども妻を娶るの獨立は生計の獨立に伴はざる可らず衣食は都て父母の資力に仰で妻ばかりは則ち自力を以て擇ぶの奇談なきにあらず又た昔年曾て實父母養父母の命に由て定められたる糟糠の妻を顧るの道理はなかるべしと雖ども之を顧みざると共に昔年曾てその養父母が己れを養ふて衣食を與へ教育の世話まで力を盡したる無形の深切、有形の費用をも共に忘却して之を顧みざるが如きは自利主義の調子外れと云はざるを得ず
又維新の一擧門閥を廢して四民同權の世の中となり大名も公卿も武士も農工商も平等一切縁組勝手次第にして大人達が素町人土百姓の娘を娶るは甚だ妙なり我輩の最も贊成する所、文明開化は斯くこそある可けれと明言すと雖ども其町人百姓の娘に種類あり醜美才不才は姑くこれを論ぜずして婚姻の相談に先だつに金の相談を以てするは如何なる種類のものなるや其金も男女雙方が相互に家の貧富を測量するにはあらずして婦人の方は固より貧と定まり、所有とては身體の外に物なくして云はゞ此身體の價を評して金の高を定め以て縁談を調ふることなり其金の名義は必ずしも代價と云はず或は支度金或は手當金或は御拜借金等さまざまに飾の言葉はあれども詰り金あれば縁談調ひ、金なければ調はずとの事實あれば金を以て婚姻を賣買するものと云はざるを得ず況んや唯婚姻に臨で始めて金の談に及びたるに非ず其婦人は平生既に巳に表向きに又内證に賣淫を事とする者に於てをや明に之を身受けと云ふて可なり故にこの種類の婦人と婚する者は假令へ婦人の出處が町家にても在家にても又士族にても一切これを不正の婚姻と云はざるを得ず如何となれば婚姻を賣買するは文明の事に非ざればなり大凡そ今の世間に妾と名くるものは大抵皆この婚姻法を以て得たる婦人にして内妾あり外妾あり又時としては妾より登級して正室の位に昇り所謂玉の輿にして得々たる者あり然り而して其妾なり又登級正室なり極めて之を祕密にして世間に隱し又或は既に正室にして隱すべからざる者ならば不都合ながら又殘念ながら其交際を扣目にして勉めて人の耳目に觸れざるやうに心掛け以て社會一般の外面をさへ取繕へば最早や我輩の所望は達したるものにして尚ほその上にも切込みて人の内部の私を摘發せんなどは我輩の爲ざる所なるのみならず最も惡む所にして社會風教のために愼で之を默し勉めて之を隱すの微意なれども如何せん當局の本人は却て平氣にして無頓着に附し之を人生の一大祕密事とするの精神なきものゝ如し例へば士君子相對の談話中に言、第三の人の事に及び何某の妾が云々と云ふが如きは尋常一樣のことにして必ずしも其何某を誹謗し又賤しむるの趣意にあらず甚だしきは公然他人に語るに拙者の妾(my Concubine)が如何樣に致して妾宅の内に個樣々などゝ憚る所もなく口外する者あり尚ほ甚だしきは内妾外妾の數の多きを誇り人に之を知れがしと云はぬばかりに態と妾宅などを披露する其趣は厩に客を案内して手飼の馬を示すに等しき者あり我輩は聊か文明國の事情を目撃し又人に聞き、書に見たることもあり其内情を云へば云ふべきもの甚だ少なからずと雖ども青天白日の表面に於て我國の如きは未だ曾て聞見せざる所のものにして赤面に堪へず畢竟我國人不文の罪と云はざるを得ざるなり
日本男子の品行論に就き從前世人の醜體不品行と心付かざる所に注意して之を遠ざくべしとは我輩の所望の一個條なるが今その事實を擧ぐれば和姦密通の如きは世人の普く醜とする所にして特に物新らしく誡しむるにも及はざることなれども爰に世上一般の人が等閑に看過して内實の醜に心付かざる者は彼の藝妓の一族なり王政維新前にも三都その他繁華の地にはこの者ありしと雖ども其業は專ら歌舞管絃を奏し盃盤の間に周旋して客の酒興を助るの用に供するまでにして淫猥の沙汰は極めて稀に聞く所にして藝妓社會にも自から一種取締の習慣を存し稀に藝妓にして淫する者あれば其社會に擯斥せらるゝか又は公けに擯けられざるも本人が私に愧るの風なりしが維新以來大にその風俗を破りて例へば東京市中にても藝妓の巣窟と稱するもの凡そ二十餘箇所、妓の數一千人に下らずその内部の隱密より外にして酒樓茶店周旋の事情に至るまでも特に我輩の探り得て知る所にして唯特に之を明にするを好まざるがために筆の端に記さゞるのみのことなれども凡そ今の藝妓の業は單に歌舞管絃の藝を以て酒を助るのみにあらず其多數は客の需に應じて情を賣らざる者なしと云ふ或る衞生醫學士の言に目下新吉原を始めとして梅毒檢査を行ふて之がために大に傳染の害を防ぎ得たりと雖ども唯これを公けの賣淫區に行ふのみにして市中の藝妓を今のまゝに差置くときは前門の虎を逐ふて後門の狼を防かざるに等しと語りたるを聞いても其内情の實は窺ひ知るべし、需る者ありて應ずる者を生ずる歟、應ずる者を見て需る者を來たす歟、その前後は兎も角も維新以來近年に至りて世上一般に藝妓を召すの風は日にますます進歩して小集大集こゝに酒あれば妓なかる可らず、社會の上流に立て天下の事を喜憂し徳望を以て身の重きを成すと稱する其人が昨日何々閣の高會には藝妓何十名を聘して興を助け主客歡を盡して散じ又今宵は地方より來集の何々を何々樓に會するの用意として既に妓を命じたり其盛なる知るべしなどゝ藝妓は恰も饗應獻立中のものにして然かも其重要の部分を占め苟も妓を缺いで漫は君子の宴を成さずと云ふも可なり流風に流るゝは人氣の常にして其勢止む可らず諸商人の金談、諸會社の懇會、少年書生の會合、朋友親戚の附合に至るまでも都て此風を成し、甚だしきは寺の坊主が寺門の用談にも圓顱滿坐酒酣にして紅裙緇衣と亂れて爛漫たるの奇觀を呈するあり抑もこの種類の日本男子が宴席に藝妓を要して缺く可らざるものとするは必ずしも其席に情を買ふの目的のみに非ず例へば酒樓に登り又は自宅に仕出しの料理を命じても客席の取廻はしは手慣れたる藝妓に非ざれば不都合少なからずして事情止むを得ざるの場合も無きに非ざれども然りと雖ども今その藝妓なる者の素性を尋れば人間社會中果して如何なる種族に屬して文明の標準より如何なる品評を下だす可きものなるや前に云へる如く其中の多數は錢を以て情を買はんことを需めて其需に應ずる者とあれば惣體の名義は兎も角も之を賣る者は則ち其實に於て一種の賣婬婦人と云はざるを得ず洋語に之をプロスチチユート(Prostitute)と云ふプロスチチュートは文明世界に最も多くして最も賤しんずる所の者にして苟も社會の士君子たる者は公けに之を近づけざるのみか假に彼の文明國に於て貴婦人紳士の盛會中に誤て賣婬婦の座に在るあらば衆客は皆朝衣朝冠して塗炭に坐するの思ひを爲し怫然として之を避ること伯夷が惡色惡聲を惡むの情に等しきことならん是等の事情に就ては固より古學流儀、品行無頓着の人と共に語る可らず又酒落通達を以て自から氣取る浮世の才子に告るも無益なりと雖ども苟も夙に西洋の文明に志して其士君子に接し又その國に往來して其社會の組織を目撃したらん人は萬々心得居るべき筈にして且我國には多年歐米に留學などしたる人もあり又は彼の民情風俗視察のためにとて特に巡廻したる人物の多きにも拘はらず扨その人々が日本に歸りて暫時日本の風に吹かるれば容易に之に風化して洒落の通人となり時に或は置酒高會など云へば例の如く藝妓の歌舞管絃に柳下惠の本性を現はし猥語を羞ぢず、醜戲を辭せず且飮み、且語り、且笑ひ、且叫び、甚だしきは且横たはり、且眠り、百の妓女が我側に袒裼裸程するも平氣なるが如き者あるとは實に不審に堪へざる次第なり我輩竊に思ふに是等の人物は其曾て西洋諸國に行きたると行かざるとに論なく必ず彼の國人中に知己朋友ありて折節は文通し互に雙方の動靜を報ずるならんなれば其文書中に去る何月何日は吾吾同志者が世教民利國益のために兼て計畫したる何々社の發會にして朝野諸紳士の臨席する者甚だ多く某君の祝詞、某先生の演説終りて盛宴を張り云々までの報道は差支へなかるべしと雖ども其以下の文に當日宴席の酒興を助るがために藝妓何名を召して絲竹歌舞の愉快に衆客皆醉倒の歡を盡して去りたり云々と記し尚外國人の事なれば唯藝妓とのみ云ふも其何ものたるを解し難きが故に念のために一言を書き加へ本來藝妓とは我國にて其職業を問へば字義の通りの業を執る女子なれども近來は彼等の風俗大に變じて一歩を進め竊に客の需に應じて一時又定時に情を賣る者なり盖し我國上流の士君子が公けに又私に人を會して大小の宴を開くには必ず藝妓を其座に周旋せしめ客も妓も盃盤狼藉の間に打混りて無上の快樂を享るの風なり云々との説明を送るべきや否や我輩の推察する所にては假令へ其外國人が如何に親友たりとも是れまでの説明を添へて報道することは無かるべし否な、當局者の本心に於て報道すること能はざるべしと信ず如何となれば藝妓を宴席に弄ぶの一事、内國人同士なれば甚だ安氣なれども外國人に對しては少しく愧る所のものあればなり左れば此一事は文明國の人に向て斷じて口外すべからざることにして獨り内國に在ては毫も愧る所なきもの歟、我輩その理由を知らず一身の榮譽面目は細々積で重きを成すものなり一國の榮譽面目も亦然り何者の輕薄兒か敢て之を人生の細行なりと云ふ自身を知らず又自國を知らざる者なり
藝妓社會を去りて娼妓の境界を見れば純然たる賣婬の營業にして彼の遊廓と稱するは即ち賣婬の巣窟なり尋常一樣の人間世界には非ざるなり抑も娼妓の利害に就ては今更これを論ずる者も少なく所謂道徳家の所望に任すれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども人間世界は道徳のみの世界に非ず人類の身も之を二樣に分つときは一方は人にして一方は禽獸に異ならず近く喩を取れば人の衣服を着けたる所は人類にして其裸體たる所は禽獸なるが如し道徳家の注文通りに自身の人心を以て自身の獸心の働を制伏し得れば誠に目出度き仕合なれども世界古今その例を見ず左れば獸心の働果して止むべからざる歟然らば則ちその止むべからざるに從て之を許し是れよりも更に大なる害を防ぐこそ利益なれとて今日に至りては如何なる偏窟論者も世の中に娼妓の種を除かんなど云ふ者は絶てあることなし殊に文明の進歩して貧富の差の甚だしきを致す其割合に準じて虚飾も亦甚だしきを致し貧人は貧なるがために妻を養ふを得ず富人は虚飾の慾に忙はしくして婚するの暇を得ず世界到る處に無數の獨身者を生じて我輩の情慾を滿足せしむるためには是非とも娼妓の方便なきを得ず實を申せば社會貧富の差、斯の如く甚だしからずして上流も下流も相應に勞働して相應に錢を儲け以て一家を保つ可きの仕組ならば娼妓の要も大に減じて好き都合なるべしと雖ども實際に於て其然るを得ざるは社會全體の大勢に妨げらるゝものと云はざるを得ず一人の働を以て日に二三十錢より四五十錢(是れは都會の話にして田舍は此半に及ばざるもの多し)の錢を取り一月中に休日もあり又天氣に妨げらるゝもありて之を平均すれば毎月の所得十圓に上るを得ずして五六圓に居る者を多數とす僅に一身の衣食に足るのみにして酒さへ呑むを得ず妻を養はんなどは思ひも寄らぬ事にして若しも無理に妻帶して不幸にして子を産むこともあれば一家唯餓死を待つの外なし又上流の人の虚飾も止むを得ざる世間の風潮にして殊に歐米諸國にては其弊最も甚だしく美衣美食して外面を裝ふにあらざれば世間の交際を許されず就中男女婚姻は生涯の一大事にして即時に錢を費すのみならず婚姻の後は家の面目を改めて平生の暮向に費用の崇むこと以前に幾倍するが故に容易に企つべき事柄にあらず先づ以て獨身を辛抱するの外手段あることなく又近來の如く教育の方法の上進するに就ては男女ともに大に精神を發達して俗に所謂氣位は至て高き處に止まれども扨錢の一段に至りては紛れもなき貧乏人にして此貧乏人が婚姻を求れば其相手も亦貧乏人ならざるを得ず曾て何れかの大學校を卒業して文才技藝拔群なりと稱する學士學女にても其才藝を以て現に錢を得て豐なる者にあらざれば婚姻の相手は裏店の娘か横町の職人たるに過ぎず我が教育の品格を以ては、まさか彼の殺風景なる娘に細君の地位を授るを得ず彼の荒々しき下郎を良人として親しむに忍びず我が身に錢こそ無けれども人品は則ち君臣の差も啻ならずとて其状恰も錢もなく智惠もなき貴族が爵位と勳章とを抱て人の之を顧みるものなきが如し是亦獨身を守るの外に詮方なき者なり故に文明開化の次第に進歩するに從て人心漸く肉體の慾を去て精神の快樂を重んずるの痕跡は聊か見る可きに似たりと雖ども同時にこの開明のために世に獨身者の數を増し其始末は誠に當惑の次第にして唯一線の血路は窮策にも醜策にも娼妓に依頼して社會の安寧を保つの外あるべからざるなり假に今、人間世界に娼妓を全廢して痕跡をもなきに至らしめん歟、その影響は實に恐るべきものならん例へば近く東京に於て新吉原を始めとして幾箇所の遊廓を禁じ兼て市中賣婬の取締を嚴にして之を封鎖したらば如何なる事相を呈すべきや數月を出でずして滿都の獸慾自から禁ずること能はず、發しては良家の子女の婬奔と爲り、伏しては孤枕の寡婦の和姦と爲り、密通強姦と爲り、勾引缺落と爲り或は大に破裂して諸處の爭鬪と爲り社會の秩序もこれがために紊亂せられて復た收む可らざるに至る也疑を容る可らずと雖ども古今幸にして斯る慘状を見ざるは之を娼妓の效力と云はざるを得ざるなり抑も娼妓の業は最も賤しく最も見苦しくして本人の心身共に最も苦しきものなりと雖ども今の人間社會の組織に於ては萬々これを廢す可らざるのみか僅にこれに依頼して秩序を維持し來り、此者あらざれば秩序忽ち紊亂するとあるからには本人のこの業を執る其目的は兎も角も社會より之を論じ其人と業との如何を問はずして其業の成跡を見れば娼妓も亦是れ身を苦しめて世に益する者と評せざるを得ず比喩は少しく奇なりと雖ども或る西洋の學士が娼妓を評して濁世のマルタルと名けたることあり盖しマルタルとは法教の主義のために生命を犧牲にする者の名にして即ち身を棄てゝ衆生濟度に供するの仁者なり日本にて云へば親鸞上人日蓮上人の流が草を席にし石を枕にして法を説き甚しきは流罪の苦痛を甞め斬首の座に就くまでにしたるも皆法のため、衆生安樂のために身を犧牲に供したるものより外ならずマルタルの功徳大なりと雖ども今娼妓がこの濁れる世の中に居て其容易に起るべき慘状を未だ起らざるに救ふの有樣を評論すれば其人物、其事業、其目的こそ異なれども社會の事跡に現はれたる功徳の大小輕重は之を親鸞日蓮の功徳に比して差違なき者と云ふべし如何となれば身を苦しめて世の安樂幸福を助る者これをマルタルと名くればなり我輩は娼妓を廢せんとする者にあらず却て之を保存せんとこそ願へども其これを保存するの方法に就て説あり之を次に陳べん
娼妓の今の世に要用にして缺く可らざる次第は前に之を痛論して讀者も多分異議なきことならんと雖ども然りと雖ども其業たる最も賤しむ可く、最も惡む可くして然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし之を業とする者は既に女子たるの榮譽を失ひ之を弄ぶ者は既に男子たるの面目を棄て共に與に人非人の境界に陷りて畜生道に戲るゝ者なれば苟も文明の人間世界に於ては千百の事情のために之を禁ずること能はざるも深く之を隱すの注意なかる可らず前節の比喩に人の衣服は醜體を掩ふものなりと云へり衣服は人身の醜體を除く者にあらざれども之を掩ふときは外見醜なきに等し、故に娼妓賣婬の醜體も之を隱せばとて其實を除きたるには非ざれども、隱すと隱さゞるとは人の身體に衣服を着ると着ざるとの相違にして最も大切なる事と知るべし西洋諸國に於ても娼妓は最も多くして之を弄ぶこと最も盛なれども同時に文明の裝飾最も嚴重にして人の目に觸るゝことなし假令へ之に觸るゝも之を口にし又耳にする者なくして其社會の外見の美なること貴女子が衣裳を着飾りて優然たる者の如し或は其内實を探り衣裳を褫で内部を見たらば意外の瘡痕も現はれて見るに堪へざるの醜體あるべしと雖ども文明の眼は唯衣裳の美惡を評するのみにして衣裳内の物を問はず是れ即ち文明社會の美なる所にして娼妓多くして娼妓なく、遊所繁昌して遊所を見ざる由縁なり然るに今眼を轉じて日本社會を見れば事體全く反對にして娼妓遊廓ほど世に現はれて人の耳目に著しき者なきが如し例へば東京にても各所の遊廓爭ふて其外見を張り、之を示し之を吹聽して尚ほ足らざれば門前に特に花樹を植へて燈を點し又時としては「にはか」と稱し衆妓女の行列舞樂を設けて廓内の街道を押し廻はり唄の文句に花の江戸町京町と云へば歌人は三十一文字を讀んで情の濃なるを愛で詩客は四七の竹枝を作て風流を詠ずる等その騷々しきこと實に言語に絶へたる始末にして之を隱すは扨置き唯人に知られざるを是れ恐るゝ者の如し遊廓の仕組既に公然として騷々しければ遊人のこゝに遊ぶ者も亦公然として憚る所なし徳川政府の初年には大名士族が夥多の從者を從へて馬に騎し乘輿に乘りて遊廓に往來したりとの話は人の記憶する所ならん今日は流石に文明簡易の日なれば娼妓を買ふに同勢を召供する者はなかるべしと雖ども歴々たる紳士、飄々たる書生、車を飛ばして奔走出沒、北州の濃情、南海の快遊これを語り、これを説き他の失敗を嘲けり、己が得意を誇り、脊中を敲かれて肩を脅し、目を細くして涎を流し、喋々喃々その騷々しきこと傍より遽に之を聞けば血氣の壯士が前日遊獵の樂事を再演して語るものかと疑はるゝばかりなり斯の如く遊廓の遊は日本の天地に公明正大のものなるが故に往々これを人事の交際に利用し商用の懇談、爭論不和の調和、又は舊相識再會の饗應、文人墨客の集會又時としては政治上の談論、自分出處の内話等これを彼の仙境に催したらば一入の興を添へて談亦熟することならんとて眞面の人品は衣服を正うし半白の故老は杖を携へ正々堂々悠々閑々としてこゝに會合する者あり又地方の人物が都下の見物に月餘滯在の其中に銀座通りの煉瓦屋、芝上野淺草向島等は既に之を見物して諸官省裁判所等も其外面より之を一覽したり此上は諸工場諸學校なれども假令へ工場學校は後にするも吉原の遊興は生涯の話の種に一度び試みざる可らず多年の宿願に出京してこの一興を缺いでは故郷に土産を忘るゝに等しとて其これを重んずるは上野淺草向島の景勝に并び立て遙に工場學校の上に在るが如し遊廓の名聲高くして其公然たること推して知るべし
習慣既に成れば其力は向ふ所に敵なし正を壓して邪と爲し理を掩ふて非と爲すべし況んや正邪理非の不分明なる醜を變じて美と爲すに於てをや我日本國人が娼妓の業を醜とせず遊廓の遊興を公けにして愧ぢざるは戰國より封建の時代に由來したる習慣に壓しられて然るものなりと雖ども一旦心機を轉じて世界の文明を通覽し我日本國は此文明に對して如何なる關係に在るものかと思案したらば今日の日本は戰國封建の日本に非ずして文明の日本たるを發明すべし若しも我文明に足らざるものあらば國民の分として之を補ふの義務あることも亦自から明白なるべし然らば則ち娼妓の一事も他の文明諸國に於て人事の祕密に屬することならば我國に於ても其風に倣ふて之を祕密にせざるべからず試に思へ彼の遊廓に花々しく樓を築き、花樹を植へ、燈を點し、妓女「にはか」の行列を催して樓上樓下戸内戸外絲竹管絃の賑ひに遠近の耳目を引くは醜體を隱すには非ずして畜生道の極樂は此處に在り四方の貴客即ち無數の獸類はこゝに來りて獸戲を戲れ獸慾を逞うせよと聲高らかに吹聽して案内するに異ならす西洋東洋禽獸甚だ多し我輩その内實に於ては特に日本人の品行を愧るには非ざれども唯その聲の高くして形の明なるに赤面するのみ世の識者果して我輩と感を共にし説を同うする歟、甚だ妙なり若しも然らずして異感異説、甚だしきは夫子自から犯す所のものありて之を遂げんとならば亦是れ一説なり遠慮なく其説を立て來れ我輩も亦遠慮なく之に答へて是非を明にせんのみ本來是等の事が盜偸の如き公然たる惡事なれば政府の法を以て公然これを禁じて其底る處までも極むべしと雖ども濁世の人情を顧みて社會の秩序を考ふるときは決して之を禁ずべからず、之を禁ずべからずして之を隱さんとす最も困難なる場合にして迚も政法の達すべき限りに非ざれば之に任ずる者は社會先進の士の私に在ることゝ心得、人々に負擔して力を盡すこと肝要なるべし即ち我輩が特に世の識者に注意を促す由縁なり
今の日本男子が内行を愼まずして婚姻の法を等閑に附し内妾外妾これを求るの媒介に錢を用ひ甚だしきは其正室本妻と稱する者の出處さへ瞹昧にして人に公言すべからざる者少なからず又藝妓娼妓の醜を醜とせずして公然これに戲れ曾て愧ることなき其有樣は前既にこれを記し斯る社會の醜體の由て來る原因は遠く戰國の世に在りて近く封建の時代に風を成したるものなりとの次第も讀者に於て既に注意せられたることならん左れば近時我文明の次第に進歩するに從て戰國封建の遺風も次第に止み此文明世界に出身する後進の輩は品行の一事に就ても大に面目を改むべき筈なるに其事跡甚だ少なくして隨て出れば隨て奇なる者あるが如きは不審に堪へざることなれども是れ亦今の勢に於て當さに然る可き理由あるものゝ如し抑も社會多數の平均に於て後進の言行は先進の型に鑄冶せらるゝものにして拔群の天資を具ふる人物に非ざれば能く此型を脱して獨立するものなきを常とす故に品行の一事に於ても後進の取て以て手本とする所は先づ近く先進の例に傚ひ其醜美ともに先例に依るは免かる可らざるの勢なるに不幸なるは今の社會の先進故老は二十年のむかし國の政治の變動と共に身の品行をも變動して隨分その極點に達し爾來身に染みたる習慣を拂ふこと能はずして今日にても内室の出處を公言するに苦しみ妾宅の番地を問はれて困る者も少なからざれば後進の見る所にて品行は人生の些末事、身を輕重するに足らざるものなりと心得て徃々人の目に餘るほどの振舞すれども曾て先進故老の前に首尾を失ふことなきのみか却て交際を親密にするの意味なきにあらず故老大人の言を聞くに一切の人事に就ては常に正義道徳を語り徳教彝倫の事共甚だ嚴重にして天下後進生の薄徳を憂ふるなど至極條理の貫きたるが如くなれども談緒を轉じて近く人々一身上の品行論に至れば其洒落無頓着なること流水の流暢して曾て停滯せざるものゝ如く前言の正格、後言の變通、前後恰も二人の口より出でたる言の如くに響くが故に血氣未だ定まらざるの後進生は大早計にも不品行は徳教彜倫外の事なりと信じて憚る所なきに至るも是非なき次第にこそあれ盖し若き時に酒癖ありし老爺は悴に酒を誡しめ、面に痘痕ある者は子供の種痘を怠ることなし我が身の缺典を後悔し我が身の不幸に懲りて後を警しむるの情ならんと雖ども是れは親子の間にして然るのみにして先進故老の後進に對するは斯の如く深切ならず己れ曾て大酒にして今も禁酒すること能はざれば世間に酒客の多きを惡まず、己れの面に痘痕あれば世間に痘痕の仲間あるを厭はず啻に之を惡まず厭はざるのみならず其私心の底を叩けば惡しき事とは知りながら竊に同類の多きを悦んで同情相憐み同氣相求るの意味なきにあらず後進の品行を縛するに繩なきものにして其奔逸するも亦謂れなきに非ざるなり
又世の中に一種の才子なる者あり此者は大抵皆讀書の法も知り、文筆もあり又事を爲すの才もありて近年世間が西洋流の文明開化と云へば其中には横文さへ讀み覺へて時としては外國にも往來し其人物に交はり世務政談樣々理窟を云ふことも巧にして又これを文章にも綴り事業にも行ひ、一見したる處にては文明有爲の學者として通用すべき輩なれども其本を尋て本心の在る所を求れば漢學者の境界を脱すること能はず其文明論中又事業中、往々儒流の馬脚を現はして人に笑はるゝのみならず其儒流も程朱の窮窟主義にして律儀一偏なれば尚ほ恕すべしと雖ども漢儒の何流に流れたるものか身持の不行跡なること實に言語道斷にして沈湎冒色、花柳に戲れ青樓に醉ふが如きは尋常一樣の人事として愧るを知らず人倫の最も大切なる婚姻法さへ瞹昧にして一時の外妾、定時の内妾、凡そ今の濁世に犯すべき不品行の箇條は一として犯し得ざるものなくして然かも其事を祕密にして隱すの謀を爲さゞるのみか彼等の仲間にては放蕩婬逸を以て自負の談柄と爲し衆人廣座の中をも憚らずして猥語醜言、自から稱して通客色男など公言する其樣は野蠻人種が赤裸にて白晝横行するの状に異ならず日本の下人は動もすれば四肢肉體を露はして不體裁など云ふ者あれども何ぞ料らん遙に上流の才子連中には美衣盛服衣冠正しくして赤裸なる者多し而して此輩の談論或は眞面目の事に入らんとすることあれば乃ち横道に遁れて自から防ぎ、妓を擁して天下の事を語り太白を啣んで宇内の形勢を談ずるなど態と漫語放言して以て己れが不行状を瞞着し世間の人も亦よく之に欺かれて其罪を問はず却て之を目して紳士學者なり、事務政治家なりとて社會の地位を許すが故に後進の輩がこの漫語放言に教唆せられて方向を誤る者多きも亦謂れなきに非ず一身を自棄するのみならず併せて人の子を賊ふ者にして社會品行の蠧賊とは實にこの才子のことならん晉の謝安が常に妓女を從へて東山に遊び天下の士大夫これに望を屬したりと云ふことあり盖し今の才子の流は謝安を以て自から氣取る者か晉代の野蠻世界はいざ知らず十九世紀の文明は公けに醜體を許さず、高らかに醜聲を放たしめず、プロスチチュートを擁して自から娯しむが如き遊冶郎を求めて誰れか之に天下の蒼生を托する者あらんや獨り日本國人なる我輩の不服なるのみならず世界の輿論の許さゞる所なり又この才子等が人に其不行状を咎められたるとき最後の遁辭には亦是れ世間の附合なりと云はざる者なし人へ交際のために我が婚姻法を紊ると云ふも些と不都合なれども姑く之を許し彼の附合とは宴席に藝妓を召し又は青樓に登る等の事ならんと雖ども抑も附合とは主客互に仕向けて互に報るの義なれば不行状不品行が附合とあれば雙方共に故さらに犯したる罪にして遁辭の通用すべき限りに非ず畢竟ずるに此輩は精神の尚ほ未だ發達せざる人種にして人生肉體の外に快樂あるを知らず僅に酒色の興に藉りて始て能く笑語を逞うして假りに活溌の風を裝ふものに過ぎず此點より見れば惡む可らず寧ろ憐む可しと云て可ならん故に今の後進生の品行を正しきに導いて方向に迷ふことなからしめんとするには先づ此一件に就て故老大人の磊落主義を廢し又彼の才子等の項門に一針を加へ假令へ反正の實を行ひ得ざるも毎事に控目にして祕密の一義を守らしむるの工風なかる可らざるなり我輩竊に案ずるに日本士人の徳義は之を他の文明國人の有樣に比較して決して下等なるものにあらず廉耻の心、慈悲の情、忠孝信義禮讓の徳は或は他國人に優るあるも決して劣るものにあらざるは我れも信じ人も許す所なるに獨り品行の一件に至りて言ふに忍びざるもの多し畢竟戰國より封建の時代に由來して加ふるに儒流の數の等閑なるがために社會一般の風潮を成して然るものなりとは我輩の所見にして前段にも略その意を述べたりしが爰に又この風潮よりして士人の心を誘ひ不品行を犯しながらも其慙愧の念を薄からしむるの近因を生じたり是れは他の文明國になくして日本に固有する事情なるが故にために一言せざるを得ず抑も男女相對平等の權利を抂げて人の妾となり錢を以て情を賣るの藝娼妓たるが如きは人類の最下等にして人間社會以外の業なれども古來日本國の風潮に於ては左まで之を賤しきものとせず女は氏なくして玉の輿など云ふは妾が立身して遂には本妻の格に昇り又その産みたる子が偶然に相續の主人となれば母と仰がれて身分甚だ貴きが故に女子の妾奉公は男子の仕官に異ならずして或は之を女子の青雲に志す者と云ふも可なり又彼の身を賣りて娼妓となる者は身を憂き川竹の苦界に沈むるなど云ふて隨分不愉快なるものとすれども其これを沈むるや家の不幸父母の病氣に藥を買ふがため、良人の災難を救ふがためにする等樣々の事情に迫まりて遂に肉體を賣ることもあるが故に本人に於ても深く愧るの心なく傍の人も之を見て左まで賤しまざるのみか却て之を憐みて竊に之を譽るの情なきにあらず又古來の正史小説芝居等にて是等の事を記し又作りて世間に公けにするに人の妾なり又娼妓なり人倫の大義より論じて賤しめたるものとては絶てあることなく例へば常盤御前靜御前の義朝義經に於ける、虎御前少將の曾我兄弟に於ける、阿古屋の景清に於ける、小紫の權八に於ける、宮城野信夫の敵討おかるの身賣等計ふるに暇あらず何れも皆賢女烈婦として甚だしきは學者の著はしたる烈婦傳の中に載せたる者さへある程にして世間の婦女子が斯る小説を讀み芝居など見物すれば自然に女中の談柄となり自然に其思想を動かして之を賤しむるよりも寧ろ之を慕ふの念を生じ機に臨んで實際に當るときは自から求めて人の妾たらんことを願ふ者あり又藝娼妓に身を沈めても自から耻辱と感ずることなき者多し是れ即ち我國の賣婬者中に往々良家の子女を見る由縁にして西洋諸國には絶て無き例なりと知るべし故に士人等も初の程は唯獸慾のためにこの賣婬者に戲れたるものが次第に交を重ねて次第に其内外の樣子を見れば人非人中自から人情あるのみならず稀には眞に泥中の蓮花なる者を發見することなきにあらず假令へ千萬中の一にても自から賣婬社會に光を生ずるの姿にして遊冶郎の放蕩不行跡に口實を假すものと云ふべし又一方には我國男尊女卑の習慣、人心の底に銘して之を洗ふべからず其女卑の極度に至りては男子の不行跡を傍觀して之を許すのみならず或は傍より之を助けて故さらに自由を與ふるの事跡なきに非ず例へば細君閨裡秋未だ到らざるも主公顏中春に足らざる色あれば細君の方より妾を養はんことを勸め、表面に之を勸め表面に之を辭し、再三押し問答の末、勸告は變じて歎願となり止むを得ずして之を許し妻妾睦じく暮せば世間の評判甚だ宜しくして之を婦徳と稱するが如きは古今富貴の家に珍らしからず唯富貴の大家のみならず都て尋常一樣の家族に於て主人が放蕩にして藝娼妓等の戲れに狂ひ殆んど亂暴無状なるも内を守る細君は曾て之に喙を容るゝを得ず若しも之を爭ふて風波を生ずることあれば天下の輿論は男子の方に左袒して婦人を助る者なし男子にして少しく婦人に自由を許し少しく之に敬意を表して之を親愛すれば世論これを結構人と稱し間拔と罵り人に齒ひするを許さゞるほどに擯けらるゝ其反對に婦人が男子の不行跡を咎めざれば賢婦人の名を得べし、同じ人類にして同じ權利ある男子と女子とにして女子は間拔の極端を守り啻に男子を親愛するのみならず其放蕩無頼をも許して始めて賢名を得るとは不可思議の事なれども輿論の然らしむる所これを如何ともすべからず數百千年の習慣、當局の婦人に於ても不平を訴るの道を知らず唯女人の身は斯の如く憂きものなりと觀念して尚その上にも無理に外面を裝ひ苦しき中より強ひて自から慰め男子の色を漁るは其身の働きなり吾々婦人が其間に喙を入るゝは野暮なりなど前後始末もなき言を吐き他の自由自在に任ずるが故に男子の身と爲りては内に顧るの心配なく外に在ては時として泥中の蓮花に逢ふの僥倖なきにもあらずして世間一般の風潮は醜體明にして其體を見る者なく醜聲高くして其聲を聞く者なきの安氣なれば今の男子の品行正しからんと欲するも苟も獨立獨行の氣象あるに非ざれば決して得べからざるなり
我輩既に章を重ねて日本男子品行の事に付き所見を陳べ今の洒落無頓着なる樣と、その今の有樣に至りし原因とを論説したり然りと雖ども其有樣を知り其原因を説くも之を救ひ匡すの方法を得ざれば唯一編の紀事たるに過ぎず依て今こゝには其方法の一斑を記して以て全編の局を結ばんとす但しこの事たるや獨り政府の力を用ゆ可きに非ずして專ら社會先進の人の心掛けに存するものなれば我輩の依頼する所は唯この人々あるのみにして幸に今我國には純然たる文明主義の士人に乏しからず古學の陋習を脱して又輕薄才子の風に傚はず身自から其身を重んじて其尊きを知り個々の身の尊重を積んで一國の尊重を成し以て立國の脊梁骨ともなる可き人物は我輩の竊に知る所に於ても甚だ多きことなれば微意の目的を達する亦難きに非ざるを信ずるなり扨その着手に臨んで如何すべしと云ふに本來我輩が思ふまゝの所望を云へば滿天下の男子をして其品行を重んずること生命を重んずるが如くにして完全無缺清淨潔白ならしめんとするに在りと雖ども今の濁世に於ては迚も望むべからざる事たるも我輩能く之を了解し是に於てか一歩も二歩も讓りて假令へ内實は不品行を犯すも之を祕密にして世間の耳目に隱すべし、其隱すの法も樣々なるべけれども先づ以て歐米文明國人が巧に隱すほどに之を隱すべし、或は之を隱して外面を虚飾する中には虚より實を生じて實に清淨なる者を生ずることもあらんとて窮策中僅に一縷の望を遺したる位のことなれば人心の非を正すなど云ふ大望は姑く差置き今の急務は先づ近く不品行を犯す者へ聊か苦痛を與へて其擧動を不自由ならしむるの工風肝要なるべし即ち
第一凡そ人の妾たる者は尋常一樣の婦人と并立を許さず或は妾より立身して本妻の位に昇り又は初より妻と稱する者にても其婚姻に錢の媒介を用ひ、内實賣買の姿を以て得たる婦人は一切妾と視傚して他の正當の婦人と同一樣の榮譽を得せしむ可らず、人或は説を作り妻は夫と榮譽を共にする者なり假令へ其出身の初が妾にても後に妻たれば則ち妻にして他に異なる所あるべからずと云ふ者もあらん歟、我輩一例を作りて之に質問ずべし爰に男子にして曾て錢のために男妾たりし者が(男妾なる者が實に世の中に有るや無きや我輩知らずと雖ども假に設けて云ふのみ)後に自から富貴となるか又は富貴の家に養子となりたることあらんに社會の人は此男に許すに他の正當の男子と同一樣の榮譽面目を以てする歟、我輩はその必ず然らざるを信ず然らば則ち男妾と女妾と何の異同あるや等しく人倫の權理を屈て情を賣りたる者にして男子なれば擯斥せられて女子なれば然らずとの道理はなかるべし
第二藝妓にても娼妓にても苟も私に公けに賣婬を以て業とする者は之を人間社會の外に擯斥して人と齒するを許すべからず公然遊廓と名くる區域を設るも不體裁なるに似たれども古來の慣行、一朝に廢することも難からんなれば之を默許に附して禁ずるにも及ばずと雖ども社會より之を視ること恰も封建時代の穢多村の如くして男子のこゝに遊戲する者は當時の遊冶郎が稀に穢多の小屋に出入して彼の所謂女太夫の婬を買ふと同樣に極祕極密の覺悟なからしめざる可らず(女太夫とはむかし穢多の女子にして三味線唄をもて市に錢を乞ひ時としては婬を賣る者ありしと云ふ)又士君子の宴會等に賣婬藝妓の陪席を許すべからざるは言ふまでもなきことにして若し或は其宴に歌曲管絃の興を添へんとならば字義の如く其藝に巧なる妓女を召して別室か又は宴の座末に之を奏せしむるも可ならん何等の口實を設るも社會先達の君子士大夫と稱せらるゝ者が公然たる宴會に賣婬婦と笑語戲謔するの自由はなき筈なり然りと雖ども人おのおの私の自由あり之を摘發して其底る所を窮むるは社會の許さゞる所なれば若しも二三の親友相會して相互に隱すことなく忌むことなき無禮講を催ふすも亦是れ人生の一快樂事にして殊に肉體以下の樂事に慣れたる者は自から禁ず可きに非ざれば藝妓も甚だ要用にして青樓の戲も亦可ならん唯祕密の一義を愼んで守るべきのみ我輩は多を求めざる者なり
斯の如くして事の成跡は如何なる可きやと豫じめ之を想像するに娼妓藝妓は勿論、人の妾たる者も大に面目を失ふて云はゞ人間世界に居ながら一個の人として人に視られざるが故に自から彼等の仲間の榮譽品格を落しこれがために從前は自から求めて其仲間に入りし者も今は之を避けんことを勉るは人の心の必然の勢にして又これを避る者は必ず先づ良家の女子稍や教育ある者に限る可ければ賣婬社會寥として復た泥中の花を見ず跡に殘る者は無智無徳破廉耻の下等婦人のみにして甚だしきは夜叉鬼女とも名づく可き者なれば浮世の男子も之に近づくには少しく氣味わるき情を催ふして殊に上流の士君子は藝妓娼妓又は外妾など云ふ名義に愧ぢて自から忍ぶこともあるべし或は假令へ内實に忍ぶ可らざるの事情に迫りて不品行を犯すも力の及ぶ丈けは之を祕密にして外見を裝ひ社會の見る目に美を添るの成跡あるべし即ち我輩の工風にて男子の心に苦痛を與へて其擧動を不自由ならしめんとはこの事なり之を聞く西洋諸國の賣婬婦は實に自暴自棄の境界に沈みたる者にして迚も尋常の社會に交際を求るの意もなく父母兄弟を知らず、郷黨朋友に背き、世界到る處に放食鯨飮して日一日を送り今日にして明日を謀らざる其亂暴は實に女中の破戸とも云ふ可き樣なれば世間の男子も容易に之に近づくことを爲さず假令へ近づくも大に注意を要することにして無智無力の男子にては不品行を犯すことも叶はざるほどの有樣なりと云ふ實は賣婬社會とても智徳に乏しくして言行の賤しきは好ましからぬことなれども既に人倫をも破りたる者へ徳義の厚からんことを求るも見込少なき所望なれば其賤しきは賤しきまゝに打棄て置き、其賤しき臭氣を放ちて以て士人の近づかんとする者を拂ふは自から亦經世の一策なるべし故に我輩は日本の賣婬婦の地位をして西洋の同業者と一樣ならしめんことを冀望する者なり或人の説に娼妓の梅毒を檢査するは公共の利益に似たれども一方より論ずれば徒に天下の遊冶郎をして安心して不品行を爲さしむるの媒介たるが故に寧ろ檢査の法を廢し娼妓の梅毒を以て他の不品行を防くの一具に供するに若かずと云ふ者あり言慘酷に似たれども甚だ道理あるが如し盖し我輩が大に賣淫者の地位を賤しくして上流士君子の之に近づく者を防禦し又その事を祕密にせしめんとするは事柄こそ違へども梅毒檢査を廢するの説と精神を共にする者なり
品行論終