「速に二千萬圓を使用し盡すべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「速に二千萬圓を使用し盡すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

速に二千萬圓を使用し盡すべし

今の第十九世紀の世界に生息する者として鉄道の効能を知らざる者はあらず今日の日本人は第十九世紀の文明空氣中に生息する人々なり此人々に向いて言を献するに其議論鉄道の効能等に亘る〓とありて〓所謂佛の面前で法を説く誹を免れざるべ〓といえども去りとて鉄道なるものゝ性質に於いて唯其効能の如何を明らかにしたるのみにては何の役にも立たず鉄道の効能を知る智力のみなりて更に實物の鉄道を造る勇氣なき者は初めより未だ鉄道の効能を知らざる者と毫も擇ぶ所なきなり今の日本人は既に鉄道の効能を知る智あり然れども未だ鉄道の初歩論を試みたりとて我輩幸いに否な不幸に佛面前の説法を爲〓の誹を免かるゝ〓とを得べきか

或る論者は曰く日本の兵備を擴張するには先ず鉄道を増設し東西南北に貫通して四境を連絡せ〓めざるべからず鉄道の蛛網一たび成れば軍兵の集散縦操自由自在〓〓て電信一封の報知を得れば全國何れの地方にても即刻〓所要に兵を集むることを得べく用終など又此兵の他に一〓を送ると得べし別に工風を用いずして自から常山の蛇勢を成すものなるがゆえに同數の兵といえども鉄道の有無に依りて其實力の二三倍の相違を生ずべし若し日本陸上の兵備は今の儘にて十分なりと仮定むるときは鉄道成る日こ〓を半減とするも差支なかるべし故に今日本の兵備を擴張せんとするに第一必要のものは鉄道なりと如何にも論者の説の如く鉄道は兵備に第一に必需品たるよと爭うべからざる事實なり然れども鉄道の用は兵備に一事を限らず兵微に必要なると同じく商業にも必要で工業でも必要に農業でも必要に學事でも必要に一口に申せば凡そ人間社會の事一として鉄道の必要を感ぜざるものなきなり鉄道は人間社會文明進歩の萬能薬なりと稱するも決して過言にあらざるべし飢者に云〓錢あれば此飢を免かるゝを得べしと渇者は云う錢あれば此渇を免かるゝを得べしと寒者は云う錢あれば此寒を免かるゝを得べしと食を〓飮を得衣を得るに第一に必要の品は錢なり飢渇寒者各其欲する所の目的を異とすといえどもこれを得んとするには各自皆先ず錢を持たざるべからず鉄道は即ち此錢なり日本の兵備擴張せざるべからず日本の商工農業振起せざるべからず日本は文明進歩せざるべからず而して今それを爲す法は先ず唯鉄道を布設するに在るのみ鉄道の成る一日を早くすれば兵備擴張、商工農業振起、文明進歩等皆又一日を早くす苟しくも日本を思う心ある者は國内何れの地方を問わず鉄道を布設する事に躊躇すべからざるなり

然るに我輩の爰に不審に堪えざるは日本鉄道事業の遲緩にして徐々の進歩何時其目的を達すべきやを知らず人をして一見忽ち欠伸を催さしむるの一事なり其最も著名なる例は中仙道の官製鉄道ならんか中仙道鉄道を布設すべし依て其資金二千萬圓を募集すべしと布告ありしは明治十六年十二月の事にして爾來既に二箇年の日月を經過せり其資金の如きは中仙道鉄道公債證書なるものを發行して漸次に募集し本年九月廿日に至りて全く〓れを了りたり二千萬圓の證書民間に散して二千萬圓の正金政府の庫中に納まりたる其正金は如何したるやと問うに我輩未だ此鉄道公債の勘定書を見ざるがゆえ固より明白なる返答を爲すこと能わずといえども單に其鉄道工事上より觀察を下しても此二千萬圓は殆ど其全額に近きまで目下尚國庫の中に埋没して居るに相違ならんと思わる何となれば二箇年以來中仙道線路に鉄道の成就したるは高崎より横川迄八里ばかりの塲所のみにして其他着手の塲所大垣半田直江津等は今正に工事の進歩中にして未だ一箇所も成就したる所〓し此等少許の工事に大金を要すべき謂れなけれど今日まで中仙道鉄道工事の費用は誠に小額のもの〓るよと問わずして知るべきなり聞く中仙道鉄道線路は當りたる地方は碓氷峠をはじめ險難至極の塲所多く爲〓に十分の速力を以て工事を進むること能わずと如何にも此言の如く工事の進まざるは全く工事の進まざるは全く地形の罪にして人の罪に非ざるべし果して然らば當局者は何故に鋒先を轉じて他の平易なる地方に向い〓空しく信州の山麓に全力を集めて徒らに自から困頓するにや二千萬圓は鉄道公債證書の利子は一箇年百四十萬圓なり既に此證書を發行したる以上は其募集金を使用するとせざるとに拘わらず百四十萬圓の利子は年々必ず拂出さざるべからず若し中仙道鉄道にして來年一杯にも成就するようのことにて首尾よく二千萬圓を使用し盡す工風もあらば格別或は左なく〓て全線路落成は今より尚四五年の後を期すなどいうようの事情もあらば徒らに正金を庫中に埋めて年々百二十萬圓ずつの損毛を被らんより寧ろ速に他の新線路の工事に着手して無益の損失を防止するに如かず其線路は東海道もあり山陽道もあり九州もありて二千萬圓の金を吸入するに於いて決して其塲所に不足に窮せざるなり斯の如く諸道一時に着手して後日更に資金の増加を要する時機來らば其時更に又公債を募集して〓〓に續くべし利足の勘定を忘れて空しく巨額の金員を庫中に埋〓置くが如きは智者の事にならざるなり或は云う此二千萬圓は單に鉄道公債と稱して募集したるものにあらずして公然明白に中仙道鉄道と銘を切りたるものなるがゆえに何様の事情あり不利益あるも必ずこれを中仙道に使用せざるべからず若しこれを他の線路に流用せば忽ち我日本政府の信用を損すべしと是れ誠に事理に通ぜざる議論なり若し此議論に從えば政府は年々百幾十萬圓の金を失わざるべ〓らず政府の損毛は即ち國民の損毛なり政府が國民の爲めに年々百幾十萬圓の損毛を救う方案を實施したりしとて何の爲めに其國民に對して信用を失うべきや誠の謂れなき甚だなきものなり殊に既に半田鉄道〓に直江津鉄道の先例あり半田直江津既に中仙道鉄道にあらずして中仙道鉄道公債の金を以て其鉄道を築き得べしとせば東海道なり山陽道なり各此公債の金を使用して其鉄道を築きたりとて何も不都合はなかるべし我輩は唯日本の鉄道工事進めず資金を空しく庫中に埋没して人間の用と爲さず年々巨萬の利金を失いて毫も益する所〓〓と思い甚だ遺憾に堪えざるのみ