「日本米國間の貿易」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「日本米國間の貿易」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本米國間の貿易

日本人が西洋なるを知り又西洋人が日本あるを知りて徃來を始めたるは數百年の昔なりしといえども近古特に日本人と親密なりし〓和蘭國人にして長崎を開いて日蘭兩國の貿易塲と爲し蘭人の來て同地に居留する者さえ少〓〓らざりし斯くて徃來の漸く頻繁なるに随い日本人が西洋を知ることも漸く詳密を加え鎖國の小天地に蟄居しながら日本上等社會の有志者中蘭人蘭書に取次にて廣く世界の事情に通ずる者に乏しからざりし〓全く和蘭人の賜なりと云わざるを得ず然るに今を〓る三十二年前北亞米利加合衆國の水師提督ペルリは本國政府の命を奉じ數艘の軍艦を率いて江戸灣より入來り時の徳川政府は迫りて和親通商の條約を結びしより俄に日本外交の面目を改め世界の文明國は米國の〓に接して大抵皆來て交りを結ばざるはなく貿易塲は長崎の外に數港を加え内外の交際漸く近密なるに随て日本人も亦内に坐しして客の外より來るを接待するのみを以て滿足せず自から進んで外國に徃來を其制度文物を見て忽ち羨望に堪えず彼れも人なり我れも人なり彼れ既に文明國人なり我れ又文明國人たらざるべからずとて一時は全國の全人事を改め新文明國創設の事に力を盡し政事兵事學術技藝商工農事に至るまで一も改良を施さざるなど三十年は久しき遂に今日の此新日本を造り出すを得たり當時東洋の國を建る者其人は乏しからず然れども能く西洋の文明を採用し〓材料に依りて新社會を造り得たる者我日本人を除いて他に一人もある〓となし日本文明の東洋を冠絶するは世界の耳目の聞見なる所にして蔽うべからざる事實なり唯獨り東洋に冠絶するのみならず歐米本部の數個の文明國を除く外我れより一歩を讓るに足るべき程の國とては廣く世界中に一個もあらじ彼の歐洲人の子孫〓に歐洲の移住人より成立つ南亞米利加の諸國ですら我日本の文明に比すれば實に數等の下に位すること世人の皆能く知る所にして此事實に我々日本人民の信用上に幾層の重きを加えたるものと云て可ならん人間は世に在りて名の聞えざるを惡む生れて東洋の新日本國人となり時に大に世人を驚かすも亦人間の一快事と云わざるを得ず面して此快事に全く米國人の賜なりと思えば人情の常と〓て我々が米國人に對する敬愛心の何となく一種特別なるを覺るなり

日本人が米國人に對する敬愛心は日本新文明の先導者なりとして一層其深きを覺るのみならず三十年來米國人が日本人に對する擧動の温和正実にして人の不幸を利して自から私を營まんとするが如き〓野の人物にあらざることを其言行を證明し曾て日本人と無理の爭論を爲したることなく偶ま下の關砲撃償金配分の仲間に加入したることあるも一旦其非を悟れば直ちに自己の分け前丈けの金を返し來りて過をあらたむるに〓あらず此等の事共更に日本人の敬愛心を喚起したるに相違ならん此二様の原因に加えて更に又一個の日本人が米國人を親しむ情を厚から〓むるものは西洋諸國中にて米國は特に日本に近く太平洋の航海互に二週間を隔てるのみ我隣國あり隣人なりと常に心に思いて忘れざる一事ならん此等種々の事情の合〓て愛情の基礎を固くするものなるがゆえに日米兩國人民の交誼の年に月〓益親密にして曾て變ることなきも盖し亦其理由なきにあらざるなり

日米兩國人民の交誼の厚〓るべきは以上〓るが如に種々の事情ありといえども然れども國の交りは義理人情などいうようなる漠然なる無形のものにのみ依頼にて永く其親密を維持せんとするは實際上に行わるべき事柄にあらず何とあきば仮令え何程互い深切に心あるも別に緊要事もなきに寒暑の見舞位の事の爲めに兩國人の相往來せん〓とを期するは誠に無理の事なるべく或は稀れに遊歴者の相往來する者ありとするも是れ元と多勢の人に向いて望むべき事にあらざればなり故に今日文明日進交通至便に世の中といえども國と國との交際を親密にして永く變らざらんとするには貿易の外に依頼すべき方便なきなり當時日米兩國間の貿易を見るに一箇年の輸出入取引高千五百六十萬圓強ち少なしというはあらず又後來必ず次第に〓加することならんといえども今少〓〓注意を密にして力を用いる所あれば兩國とも今日の儘の有様にても此貿易の高を二倍位に増加する〓とは左までの困難事にあらざるべし千五百六十萬圓の總額中日本より輸出するもの十三百十萬圓にして生糸茶の二品にて其十分の九を占め(生糸六百万圓茶五百八十萬圓)米國より輸入するもの二百五十萬圓にして石油の一品にて又其十分の七を占む(石油百八十萬圓)故に當時日米兩國間の貿易は僅に三品の交換に止まるものにして其交換も日本よりは十三の品を出して米國よりは僅かに二半の品を送り返す勘定にして出入りの權〓甚だ不平均なるものと云わざるを得ず日本より米國に輸送すべき品物は固より生糸茶の二品に限るべからず製作品鑛物等米國市塲に需用の大なるものも數多あるべけれど今より一層輸出貿易を〓張すること決して難きにあらざるべく如之近來幸に日本人も漸く故郷を去て他郷に移住する志を起し中に就き米國は志士の力を用うべき地なりと信じ續々渡航移住する者も少なからず斯の如くして米國内日本移住人の増加するに随い米國への輸出貿易に追々増加すべき自然の勢ある〓付此貿易は後來甚だ望あるものたること明白ならん又米國より日本への輸入貿易に唯石油の一品にのみ依頼〓て未だ他に其力を及ぼすに遑あらず千三百萬圓に對する二百五十萬圓位の辺報にて永く滿足せんとするに我輩が甚だ米國人の爲めに惜む所あり當時日本の輸入貿易中最も多額を占めるものは木綿織物類にして其重もなる輸入者は英國人なり聞く處に據れば米國の機織業も近年大に進歩し南亞米利加其他の市塲にて英人と競爭しこれに打勝つ勢ありという程なるに何故日本に向いては其織物類の爲めに新市塲を開く企を爲さざるにや又近來日本にて獨逸製の麥酒類を多く輸入するは米國人も目撃して知る所ならん麥酒の貿易固より巨額のものにあらずといえども日本と對岸のカリフォルニア州等に十分の〓造所を所有する米國人にして麥酒の貿易に於いて獨逸人に一歩を讓る實跡あるは誠に遺憾なり又米國鉄道建築法は簡易輕便にして今の日本に最も適當すべきとは久しく世論の許す所なり然るに米國人にして未だ日本の鉄道事業を助成する企あると聞かざるは商賣上の手ぬかりなりと云うも可ならん兎に角に米國人にして日本貿易に今少し心を用いんには今の輸入額を數倍して入るを以て出るを償う度にまで進むることは格別の骨折にあるまじと思わる唯我輩は日米兩國は交誼を益親密あらし〓〓これを永遠に維持せんと欲して目下兩國間の貿易の有様に滿足することを能わず特に此事に向て兩國人民に注意を請わんとするのみ