「全國の商况を回復するは鉄道を布設するに在り」
このページについて
時事新報に掲載された「全國の商况を回復するは鉄道を布設するに在り」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
全國の商况を回復するは鉄道を布設するに在り
日本國民が不景氣に窘しめられたるは既に數年の久しきに及び其慘状は飢渇死に至る者を各地に見るの甚だしきに達し遂に今日まで續き來りて今日未だ其回復を見るに至らず國民の不幸實にこれより大なるはなし此不幸は元と不換紙幣の濫行より生したる人爲の災害にして今日は幸に紙幣の不換質丈けは交換の善良質に改まりて此上害毒を恣にせしめざるの防禦策は整ひたりといへども前日不換濫行の遺毒は正に今日に在て其凶暴を逞うしつつあるものにして全國人民は皆其毒鋒の下に斃れて未だ蘇生の機を得ざるものなり然るに偶然の幸運にも去年全國の米作甚だ上出來にして農民の食料に不足なからしめしのみならず引續き米價は案外の上直を維持して爲めに民間の金融を滑かにしたること少々にあらず此際又重ね重ねの幸運には去年十一月以來歐米の生糸市塲頓に生氣を生し從前に比して生糸の價大抵二三割を騰貴し爾來此好價格を維持して下落の模樣なく其影響の及ぶ所日本國内生糸製造の各地方は他の米作地方に比して更に一層の好景况を呈し生々活溌の景状明かに聞見すべきものあり日本國民は何等の仕合者ぞ不景氣の頂巓生氣既に滅するの日に當りて忽ち此米と生糸の來り援ふに逢ひたり所謂地獄で佛とは此事なるべし不景氣の久しき其害毒の深き固より一二品の來援を得て直ちにこれを根治することを得るにはあらずといへどもこれを第一着歩の階給として次第に高きに攀ぢ遂に商况昌盛の頂上に達し得べきの望なきにあらず誠に目出度き時節といふべし若し此事相を反對にして去年の米は大不作、生糸の價は益下落して且つ不捌なりといふやうの事あらば如何今月今日日本全國民の困難究迫は實に想像にも及ばざるものあるならん幸にして此困難究迫に陷るを免れたるは實に天幸の甚だしきものなりといはざるを得ざるなり然れども斯る天幸は常に依頼すべきにあらず永く恃むべきにあらず昨年の豊作に反し今年は凶作なるやも知るべからず今日の糸價は再び下落して前日の低價に復するやも知るべからず果して斯る出來事もあらんには折角回復の萌を現はしたる今の商况も遂に再び前日の不景氣に淪滅するの恐なきにあらず甚だ掛念の至なりといふべし葢し日本の不景氣は人爲の害毒なり人爲を以て害毒を遺し天爲を以て其遺毒を除かれしめ我れは手を拱して其回復し來るを待たんとするは義を知る士人の爲すべき行ひにあらず我れ過ちて人を傷けたらば餘事は差し置き取敢えず先づ膏藥代を拂ひて我粗忽を詫ること人事の常法なるべきなり
今人爲を以て天爲を助け目下既に聊か回復の兆ある商况に向て新に一大動力を與へ遂に其回復の功をを奏せしめんとする其方法は如何といふに我輩の兼て論辨する如く全國各地に極めて手廣く極めて迅速に鐵道を布設するの企より外に目今個の好良方便なかるへしと信ず第一鐵道を布設する其當時の利益は技師材料等の一部分に属する費用の外鐵道工事一切の費用に要する所の金は或は土地材料の買入代と爲り或は職工人足の賃錢と爲りて社會の全面に散布し有用爲す有るの力を具へながら當時無事閑散に困しみつつある人々の爲めに一時大に職業を造出して全國に無爲座職者の跡を絶ち一時に全國の商况を回復する其有樣は大旱の潤雨一時に苗の死を起して生に回らしむるに同しきものあらん第二鉄道を布設する當時の利益の既に斯の如く大なる其上に一旦鉄道成りたる上は其鉄道の及ぶ限り政治上に兵事上に教育上に又他の一般の社會の文明開化上に非常の進歩改良を見るべきのみならず商工農事の有樣は即日よりして其面目を一新し農民は舊來の土地の■（しょうへん（将の左側）＋「又」）入を増すも共に別に新に田地を開墾し工人は舊來工塲に仕事の日に増加すると共に所々に新に種々の工塲を起し商人は商路の擴張從前に幾倍するを見出して輸出輸入の有無交換の事從前幾倍の繁忙に至るべし實に鉄道は其布設當時の即効と云ひ布設後不斷永遠の功能と云ひ文明世界第一の利器なりと云ふべきなり仮りに鉄道の功能は唯其工事中無産の人々に産業を與え一時不景氣の苦痛を減するに過ぎざるものとするも顧みて全國民間の慘状を通覽すれば或は我々の私心に於て此工事を希望するの情を催さざるを得ざるの傾向あり况んや鉄道の功能中不景氣退治に力を仮すが如きは一時通り掛けの片手仕事にして本來正統の働きは工事既に竣りたる後大に全國の文明富強を進むるに在るをや目下日本の鉄道布設は迅速にせざるべからず又手廣にせざるべからず