「支那人の英斷」
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時事新報に掲載された「支那人の英斷」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
支那人の英斷
世界に國を建つる者少からず此建國の中に就當時我日本と多少の關係を有する者二十箇國に下らずして其二十箇國の中に就き最も緊要の關係を有する者は僅かに支那、朝鮮、英吉利、佛蘭西、日耳曼、魯西亞、北米合衆國等の數國に過ぎず而して此數國中我々日本人が掛念注意の最も周密なるを要する者は支那國の上に出るものなかるべし他の諸國との交際支那に比して親密ならざるにはあらず〓の諸國との貿易支那に比して僅少なるにはあらず他の諸国の兵力支那に比して弱ばきにはあらず人民少なきにあらず交通の道遠隔なるにあらず尋常の交際上より論すれば他の諸國中支那の上位に立つべきもの固より一二にして止まらざるべしといへども今我々日本人が特に支那國に注意を要するの理由は其兵力の強きにあらず其貿易の大切なるにあらず唯其政府國人の擧動の一種變則にして測るべからざるものあるがゆゑなり英佛日魯其兵力強からざるにあらず其志望大ならざるにあらずこれを友として親むべしこれを敵として疎んずべからずといへども其友たり敵たるに拘はらず我々日本人の心を以て英佛日魯國人等の擧動を察するに大抵其心の在る所を知るに難からず其擧動を見て其心を知り其心を察して其擧動を期するを得るがゆゑに隨てこれに應ずるの工風を求るも亦左まで難きにあらず然るに彼の支那人はこれに反し我々日本人の心を以て其心を察知すること先づ第一の困難事にして隨て其進退動作の如何を豫期せんことも迚も我々の爲し得べき事柄にあらず我々が傍觀者の地位に居りながら尚ほ且つ竊かに爲めに心痛憂苦する事柄にても其當局の支那國人は恬として省せず毫も以て憂と爲さざるが如きことあり或は斯る危險の方向に進行しては早晩必ず救ふべからざる困難に陷るべきにと傍觀者をして手に汗を握らしむる事柄にても其當局の支那國人は担道平々安全至極の方向に進行するものにして威を伸べ信を布き國の富強を謀るにはこれに越す妙策なしと信じて疑はざるが如きことあり斯る一種の變則國にして加ふるに其兵力財力亦以て四隣に驕るに足るものありとすれば其地位近密にして往來關係の複雜なる我日本國人が支那國人の擧動を掛念注意するの周到なるべきは自然の道理にして存慮意向の端倪すべからざる人程世に薄氣味の惡き者はなしと知るべきなり
過般支那政府は英國ロンドンに於て五千萬ポンド(二億五千萬圓)の公債を募るとの風説あり其後未だ此風説の眞僞如何を知るに及ばざる際今又ロンドンより電報の報ずる所に依れば日耳曼の有力なる金融周旋商の代理人は鉄道布設軍備擴張の資金として三千五百萬ポンド(一億七千五百萬圓)の公債募集に應する約束を爲すが爲め支那に向て出發せんとせりといへり近來支那政府にて鐵道布設軍備擴張の議あるは世に隱れもなき事實にして新に海軍省を設け所々の電線を延長したるなどは漸く既に實施の端緒を示したるものにてもあらん此際又最も日本人の注意を喚びたるは直隸總督北洋通商大臣李鴻章の配下に屬する有名の招商局にて今回新に日本支那諸港間に汽船の定期航路を開き其第一番船海定號は長崎神戸を經て去十四日正に横濱に入港したるの一事なり招商局にては其持船を日本へ廻はすと同時に北洋通商大臣の許可を經て新に三十萬ポンド(百五十萬圓)の私債を募集することに決し香港上海銀行に依頼し新聞紙等に廣告して既に其募集に着手したり抑も招商局が今回日本海の航路に手を出したるは遺利の甚だ多きを見て之を拾はんとの考なるか將又一時の損益を顧みず廣く永遠に商賣上政治上の支那の諸利益を目的として之を今日に斷行したる者か我輩未だ其眞意の在る所を窺ひ知る能はずといへども然れども如何に支那政府の保護汽船會社なればとて目下日本海には日本郵船會社と唱ふる日本政府の厚き保護を受けたる大會社ありて夥多の汽船を所持し海上の全權を掌握して支那地方にまでも其航海線路を延ばしあるとの事實はヨモ知らざることはあるまじ又斯ばかり全權の大會社なれども何故の■(しょうへん+「又」)入支出相償はず過般多數の役員を逐出たる上に三菱共同競爭の止みたる今日は海運專權の姿となりて船客荷物の取扱にも心配少なくして費用も減じ其細なるは出船の廣告をさへも廢して費用を省き一切萬事爪に燈の儉約すれども到底日本政府に向て餘程の迷惑を〓〓〓れば本年の總勘定に其株金に八分の配當金を拂ふ〓〓〓〓覺束なしとの内情も亦ヨモ探り知らざることはあるまじ斯る事實も内情も承知したる上からは己が〓合の事業に〓利のあるべからざるは明白なるに招商局が李鴻章の許可を受けて百五十萬圓の金を借入れ其持船を日本海に進航せしめたりとありては我輩實に其英斷に驚かざるを得ざるなり招商局にして既に斯る英斷ある以上は必ずしも其航路を上海、長崎、神戸、横濱等に限るを要せず或は香港、台灣琉球、長崎などいふやうの線路に一線を加ふるなども例の變則流になしとも云ふ可らず果して斯る塲合ともならば西海は實に多事なるべしと云はざるを得ず斯くて彼のロンドン電報の報ずる如く支那政府が外債に由りて新に二億圓の資金を得て大に鉄道を布き大に軍艦を造り大に兵士を訓練して以て大に富を内國に作り大に威權を四隣に振ふことともならば支那人は定めて得意なるべけれども他に迷惑を蒙る者は必ず澤山に生ずることならん我輩が特に今日に掛念する所なり