「元利金貨仕拂ひ年七分利付公債」
このページについて
時事新報に掲載された「元利金貨仕拂ひ年七分利付公債」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
元利金貨仕拂ひ年七分利付公債
近來全國一般に不景氣の甚だしき信用地を拂ひ金儲けの道絶え窮民皆口を糊するの仕事を得ず唯日に益衰弱して回復の色なき其有樣は有明の燈油儘きて火影の次第に暗くなるが如く扨も心淋しき時勢と云ふべし不景氣の爲めに迷惑する者は特に窮民に限るにあらず何程の富豪大家といへども此不景氣に逢ふて閉口せざる者は一人もなかるべし所謂金滿家なる者は其所持の金を土藏に仕舞ひ置き日々少しつつ取出して遣ひ拂ふやうの譯にあらずして毎日其金を運轉し得る所の利子を以て■(しょうへん+「又」)入となす者なるがゆえに今の不景氣の時勢に當り先方の何者たるを問はず一切信用を置くべからず左ればとて田地を抵當に金を貸せば地價下り品物を抵當に取れば品物を流され自家自から商賣に手を出して資本を下せば商業振はず資本返らずといふやうにては折角所持の金員も利を産ますべき工風なく誠に當惑の至りなり百計盡きて茫然たる其中に唯一ツの逃げ道は尚ほ命脈を存するあり即ち政府の公債證書を買入れ置く事是れなり商社も危し會社も安全ならず私立國立多少の銀行甚だ以て油斷ならず啻に資本を下して其利を見ざるのみならず一たび歩を過まれば元金を併せて沒■(しょうへん+「又」)せられ尚ほ足らずして更に又身代の幾分を捲き取らるるの恐なきにさへあらずといへども此の際獨り其憂ひ少なきは政府の公債證書なり公債證書なりとて金鉄を以て作りたる品物にはあらず金鉄尚ほ且つ永久を期すべからず况んや公債證書をや萬々歳の後までも變はるべからずと云ふにはあらねども政府以外の株券證書類に比すれば其堅きこと金鉄の如しといふも固より不可なし利の多きを貪りて遂に元金までも失はんよりは寧ろ利の少なきを辛抱して元金の安全を謀るに若かずとて六七年前に五十圓にても望む者のなかりし公債證書を七十圓に買ひ八十圓に買ひ九十圓に買ひ今日は年六分利付の公債證書が百二三圓の高價に達しても尚ほ賣る人少くして買ふ人多しとは實に驚入りたる現像といふべし如何に不景氣の爲めとは云へ年六分利付の公債證書を百圓以上にて買入るるまでの窮迫に陥りたりとは金持の運命も亦氣の毒なる哉
然るに全國不景氣の爲め金利下落の不仕合に搗てて加へて近來又金滿家の頭腦を惑乱掀衝する一事件の現はれ出でたりと云ふは世界中の市塲にて金銀の比較價位次第に其釣合を失ひ金は年を逐ふて騰貴し銀は年を逐ふて下落する其勢近來著しく劇烈明白を加へ何程世界の事情に疎遠なる田舍大盡にても疑惑不審を起さずしてこれを默過すること能はざる有樣に推移りたる事是なり日本は今實際に銀貨通用の國にして歐米諸國は金貨通用の國々なり近來日本國内不景氣の爲め輸出は常に輸入に超過し貿易の釣合歐米に對して日本の利なるにも■(てへん+「勾」)はらず金銀の差違甚だしくして日本より歐米に對する爲換相塲は年に月に下落して其際限を知らず聞く度毎に人をして唯喫驚せしむるばかりなり是に於てか日本の金滿家も大に思案を廻らし金上銀下の今の世の中に當りウカウカ公債證書を買入れて銀の上に身を托し居りては幸にして永く元利を保護するの功能あるも其根底の銀が下落すれば冥々の中に何時か大損を蒙るの掛念なしといふべからず斯る不安心なる事に強て安心せんより寧ろ早きに及んで銀を金に乗替へ置くに若かずとて樣々工風の折柄幸に日本政府にても驛遞局の貯金并に大藏省預金局の預り金に金貨を以て預け入るる者は元利ともに金貨を以て引出すことを許すとの法を設けたるより預け人の喜び一方ならず然れども其實際に臨みて又大に失望したりといふは元來驛遞局貯金の趣意は貧人の財産を保護するに在るものなるがゆえに其利子とても元金千圓以下のものには甚だ厚けれども以上のものには甚だ薄く當時の制限は千圓未滿年六分千圓以上年四分の利子なり假に金滿家が所持の公債證書を賣りて金貨に換へ驛遞局に預け入るるとして一人千圓以上の預け金にては利足の割合引合はざるゆえ一口九百九十九圓と定め家族親子五人の者が銘々一口づつを引受たりとするも合して五千圓に達する事能はず五千圓の制限にては迚も金持一家の財産を委託するに足らざるがゆえに金銀乗替の爲に驛遞局の貯金を依頼せんとするは到底其効なきものと定めざるを得ず次に大藏省の預金局は如何といふに金貨を以て預け入れ金貨を以て元利を引出すに定期預けにて利足の割合は年六分且つ其金額に制限なく一萬圓てにも十萬圓にても勝手次第なるがゆえに便利至極申分なきが如くなれども爰に又一ツの差支といふは此預金局に預かるものは官廳の金か郡町村一般の公共金か寺社の金か會社の金かに限りて尋常一個人又は數個人の所有金はこれを預かることを肯んぜず既に一個人の所有金を預からずとする以上は假令へ其名は會社にても彼の三菱會社の例の如く名は會社にて實は一個人の所有物たるが如き會社にては矢張り其預け金を拒まるることならん左すれば今金滿家が預金局へ金貨を持行かんとするも到底其道なきものにして一毫も之を利用するの工風なしと云はざるを得ず世の諺に物事を知るは憂の始なりといへり日本の金滿家も廣く世の中の事情に通ぜず金銀の價の釣合なども一向に知らずに在りしものならんには今の不景氣の時節に逢ふも何處にか安心立命の地位を見出すこと難からざりしならんに■(「敕」+こころ)い金銀乗替の利を考出してこれを實施するの方便を得ず其苦惱煩悶の状想像するに堪えたりといふべし
然るに爰に此策を實施するの一手段あり夫は別事にあらす英國ロンドンに到りて日本政府の年七分金貨利付外國新公債を買入るる事是なり英國は世界中金利の最も廉なる所安全第一等の公債證書なれば年三分利附にて額面百圓を實價百圓にて賣買する程の塲所柄なるゆえ日本政府の公債にして年七分金貨利付などいふものならば定めて賣買の相塲は額面百圓に付實價二百圓以上にも上り居ることならんとの想像を抱く者もあらんかなれそも其實際は决して然らず日本の此七分利付の公債は額面百圓に付當時實價百十二三圓にて賣買致し居るなり而して其償還未濟の當時の在高は額面凡八百萬圓ばかりあり日本公債の利足斯く不廉なるにも似ず其賣買の價は何故に斯く廉なるやと云ふに英人が唯一概に日本を信ぜずして尋常一般の東洋國を以てこれを視るがゆえなり日本人は英國に於て公債を募りたること前後二回其總額凡そ千七百萬圓にして今日まで元利首尾良く返濟し曾て一毫の不義理を爲さざりしにも拘はらず英人の日本に信を置かざること尚ほ斯の如く甚だしきは其理由唯日本を知らざるの一事に在り知らざるものは薄氣味惡く油斷ならずと爲すこと固より尋常の人情にして深く咎むるに足らず英人は日本を知らずして日本の公債に資金を下すことを悦ばず然れども我々日本人は日本を知り日本の公債を信じて疑はざる者なるがゆえに年七分金貨利付の公債證書を金貨百十二三圓にて賣らんといふ者あらば喜んでこれを買入るることならん年六分銀貨利付の公債證書ですら百圓以上にて競ふて賣買せり况んや年七分金貨利付の公債證書たるに於てをや又况んや今の日本に於ては千圓以上の預け金に金貨年四分以上の利足を得るの方便なきに於てをや目下日本の金滿家にして果して金貨を思ふの心あらば英國に赴むいて日本公債を買ふよりよきはなかるべし