「支那招商局と日本郵船會社」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那招商局と日本郵船會社」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那招商局と日本郵船會社

支那の輪船招商局と唱ふるものは北洋大臣李鴻章の管理の下に在りて專ら支那沿海并に揚子江流の航業に從事し所持の汽船二十餘艘財産凡そ五百萬圓支那地方に於て久しく威名を轟かし居たりしが一昨年佛清葛藤東京事件の最も喧しき際に當たり開戰國たる佛國東洋艦隊のために此有力なる商船隊を捕奪せらるるの患を豫防せんがため突然一切の資産を擧げて米國の一商會に賣渡し等で戰止み和成るの後に至りて再びこれを買戻し從前に替らず港運の業に從事し居るもの即ち是なり招商局の大なる其名目上に於ては固より以て日本郵船會社の廣大に及ばず又其廻漕上の經歴に於ても固より未だ舊三菱會社の久しきに及ばざるべしといへども然れとも輪船招商局は久しく東洋に有名なる汽船會社にしてこれを指揮するに有力なる李鴻章大臣の在る有り盖し亦一個の甚だ與みし易からざる商會なるべし

去年十二月の末より本年一月の初に掛けて神戸横濱邊より風説の傳はり來るものありて曰く招商局は日本諸港と支那諸港との間に近日新たに航海線路を開くの計畫あり而して專ら此事に周旋奔走する者は日本諸港に數多支店を所有する支那商徳新號なりと然るに當時日本の航業に從事する當局者等は此風説を傳聞して一笑に附して曰く今の日本航業の閑暇なる又其■(しょうへん+「又」)益の少なき固より以て新たに支那船の闖入を許すの餘地あることなし招商局の敢て俄かに日本海に手を出さざるや明白なり又彼の徳新號なるものは從來日支貿易上の經歴に富み飽くまで日本の事情に熟するがゆゑに仮令へ招商局をして今回風説の傳ふるが如き妄念を抱かしむるも老練なる徳新號にして决して斯る無謀の事に與みするの謂はれなし風説の無根妄誕なる言はずして明白なりと然るに何ぞ測らん一月中旬に至りて招商局汽船海定號の長崎神戸を經て突然横濱に入港するあり更らに十餘日を經て又々同局致遠號の入港するありて日本全國の耳目は皆此新來汽船に集まるの折柄上海よりの飛報に由りて今回招商局に於ては其資産を擧げて一切これを香港上海銀行の手中に委ね同銀行の周旋を以て百五十萬圓の私債を募集したりとの事實を聞くを得たり此の百五十萬圓は果して何の爲めにするものなるや未だ其詳細を探知するに遑あらずといへども此時の事情を簡單に形容すれば城門不意に一騎の敵兵の近づくを見て首を上げて遠く郊外を見渡すに雲際無數の旗幟天を蔽ふものあるを認めたると等しく其旗幟の何たるを聞くに及ばずして先づ竊かに一驚を喫せざるを得ざるの情實あり而して又顧みて海定致遠等の擧動を見るに船客の運賃なり荷物の運賃なりこれを目下日本郵船會社が收納する運賃額に比すれば平均一割五分乃至五割を廉にし其相違も亦實に夥しく各港に支店を置き各都府に荷物船客取扱所を置き周旋實に到らざる所なし此際又風説の傳ふる所に據れば今度招商局が航路擴張運賃引下げの其衝に當りたる日本郵船會社にては大に同局の所置を奇恠なりとし彼れ既に斯の如く無情なれば我れ又永く有情なるを用ひずとて坐して敵に窘めらるるの策を變じて進んで敵を追ふの謀略に改め先づ長崎より釜山仁川芝罘を經て天津に往來するの新航路を開き尚ほも敵船の我版圖内より退去せざるに於ては更らに數艘の汽船を縦ちて支那沿海の諸港に往來せしめ直ちに敵の本陣を衝いて其降りを促すの計を定め近日既に同會社よりは公然照會を招商局に送りてその决答を促したりといへり果して此風説をして事實ならしめば招商局の奮發といひこれに對する郵船會社の决心といひ孰れ劣らぬ兩勇士悪七兵衛と三保谷四郎がしころ引きの昔しも思ひ出されて勇ましくも亦天晴れなり然れども我輩は此兩勇士の奮鬪を見物して心竊かに疑懼する所のものなきにあらず僥倖にして支那の招商局が日本郵船會社の决心に辟易し早く自から其手を退く事もあれば此上なき仕合なれども彼れも亦一個の知れ者萬一容易に退縮せず頑然其航路を守りて敢て俄かに其降旗を飜さざる事もあらんには郵船會社は赫として大に怒り益其線路を擴張し益其汽船を増發し益其運賃を引下げ唯一戰に敵陣を陷るるの後にあらざれば遂に其心に慊らざる事ならん此時に際し郵船會社の出入を計算せんに必ず損多くして得少なく其株金一千一百萬圓に對して年八分の利益を配當するの出來難きは勿論競爭の弊害の及ぶ所遂には年一分の利益配當さへ六ケ敷甚だしきは出入全く相償はず平日の經費にさへ不足を告げて年々歳々常に幾十百萬圓ツヅの損失を蒙るの不幸を見るやも知るべからず此時に當り兼て同會社に對して保護を約束したる日本政府は同會社の爲めに經費諸積立金等を支拂ひたる上に尚ほ年々一千一百萬圓の株金に對して八分の利益を與へざるを得ず株金の内二百六十萬圓は政府自身の持株たるがゆゑに此分丈けは無利足貸付金に棄てたるものと諦めて其利足を要せずとするも人民の持株八百四十萬圓丈けには是非とも八分の利益を與へざるを得ず斯る事情にて彼れの是れのと補足金を下付せんには其總額遂に年々幾百萬圓に上りて止まるべきや我輩が今日に豫定すること能はざる所なり日本郵船會社の决心は誠に嘉みすべし然れども其决心にして果して費用の大なるものと相伴はん限りは何卒我政府も亦其監督を怠らざらんことを希望するなり