「立國の本は國民の富に在り」
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時事新報に掲載された「立國の本は國民の富に在り」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
立國の本は國民の富に在り
人民は立國の本なり國中の人民個々に富まざれば國を立ること難しとは誰れ人も言ふ所なれども國を代表する者は政府にして殊に日本國の如きは官尊民卑の習慣封建の時代より由來して政府の外には人も物もなき姿なるが故に仮令へ國民の個々が貧困なるも政府の手許に差したる困難なくして毎年の會計出入相當るときは天下太平財政安全の世の中にして焦眉の急なし三五〓〓より商况不景氣と稱し全國人民の無職業に苦しむ〓は明白なる事實なれども政府の歳入は之がために大に減じたるに非ず然かのみならず紙幣の價格舊に復し諸物價も隨て大に下落するに就ては國庫に納まる金額は前年に同樣なるも其金の實力には幾割を増したるが故に政府の財政は甚だ豐なりと云はざるを得ず之を政府の實の利益として又その外面の体裁を云へば尚ほこれよりも〓なるものありと申すは前年銀貨と紙幣と價〓〓にして不体裁なりしものが國民次第に困窮して物を買ふの力を失ひ隨て外國貿易にも輸入品少なくして銀貨の〓用なく又全國の紙幣は政府の國庫と富豪の私庫とに〓積して民間に紙幣の缺乏を告げたる今の〓〓にして銀貨は次第に下落し本年一月より交換の令は發したれども紙幣を持込みて銀貨を携え歸るが如き奇人もなければ日本の紙幣には俄に信用を増したるが如き〓〓を世間に示して甚だ美なり又國中の金穴は所有の金を持て餘まし無利足の金を閑却するの苦しみに堪へずして政府の公債證書を買入れ其價次第に騰貴し〓〓〓ある可らず是れ亦凡庸の眼を以てすれば政府の信頼を増したるが如くに見えて甚だ美なり
右の如く政府の財政は實に豊にして又その外面に於ても凡庸〓〓の〓を以てすれば甚だ美なるが如くに見えて天下太平財政安全なりと雖ども皆是れ假の事相にし〓〓〓は之に安んずるを得ず立國の根本は人民個々の富有る在りとして違ふことなきものならば今の日本國民〓〓〓にて其殖産の力能くこの國を維持するに足るべきや聊か疑なきを得ず殖産の力は國民の數に■(てへん+「勾」)はらず其〓〓の〓に在て存するものなれば苟も心を勞せず身を役せざるときは國民は有れども無きに等しきのみ然るに今日の殖産社會には心身を勞役す可き仕事を見ず唯坐して衣食するばかりなれば日に月に困窮するの外ある可らず國民にして頼甲斐なき者と云ふべし其私の困窮は尚ほ忍ぶ可しと雖ども斯る有樣にて次第に行くがままに任せたらば其末は遂に國庫の歳入に差響くことはなかる可きや我輩の最も疑ひ懼るる所なり第一地租は日本政府歳入の根本とも云ふ可きものなるに農民に農間稼の道を失ふて納税に苦しみ往々公賣處分の沙汰を蒙りて地主の權を棄る者もあるよし夫れも公賣して直に之を買ふ者あれば政府の歳入に損する所なしと雖ども不幸にして其地方の者が悉皆貧人なれば公賣も意の如くならずして官に沒收せられ果は熟田變して荒蕪地と爲るの慘状なしとも云ひ難し今日の實際に就て見れば全國の耕地にて公賣處分を受けたるものは萬分の一にも足らざる事なりと雖ども其勢の進むか退くか理財家の最も注意し最も喜憂すべき事柄にして若しも次第に進む勢あらば左右を顧みず如何なる方略をも施して之を防ぎ止むること緊要なるべし又我輩は平生より酒税論者にて全國の清酒こそ屈強の税源なりと思ひしに各國の不景氣にて人民に酒を買ふの資力なし左りとて禁酒の苦痛にも堪へずして家産中等以上の者は家釀を企る者多しと云ふ是れ亦その勢の進退に注意せざる可らず酒も家釀なれば醤油も固より手作にして煙草は銘々の畑に植て自用を辨すべし我輩の失望これより大なるはなし或は菓子税は如何と云ふに甚だ煩はしくして之を施すも脱税の憂少からず寧ろ其大本の砂糖に税を課するこそ便法なれと私に案を立たれども舶來の品に内國税は條約の許さざる所にして殘念ながら廢案に歸せざるを得ず然らば絹布の税と思へども内國の絹布が騰貴したらば外國人は直に日本向の品を織立てて輸入することならん絹布無税の今日に於ても輸入の絹織物には中々巧にして價の安きものある其最中に内國の税を取立んとするは唯外國品の輸入を招くに異ならず
右の如く方今わが國の殖産社會に向て税源を求れども農工商ともに之を得ること甚だ難きが如し左れば差向の處にて政府の財政に窮することなかるべしと雖とも税源とは字義の如く國税の源にして其源は農工商の心身の働に在るものなればその働の機が次第に調子を失ふて活動せざるに於ては立國の根本に不安心あるものと云ふべし殊にこの不安心は目下に見えずして知らず識らずその間に増大するものなるが故に天下の經濟家は不安心の尚ほいまだ大ならざるに及んで之を講究すること肝要なるべしと信ず